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【第百九十七面 情報を貪る芋虫】 芋虫の話。
ワンダーランド北東の森、岩の広場。その名の通り岩の目立つ地域で、大岩に囲まれた小さな広場がちょこんと存在しているだけだ。かつては傍らに建てられた貧相な小屋が何でも屋のギルドを名乗る鳥会議の拠点だった。しかし今現在そこに鎮座しているのは、部屋がいくつもあり倉庫まで完備した立派な事務所である。広場で囀りあっていた鳥達は事務所の中に引っ込んだのだ。
「どこがギルドなんだろうなぁ……」
同業者組合が栄えていたのは前時代の出来事だ。街で暮らす人間達が作った組織で、同じものを取り扱う商人達が協力するために結成したと聞く。かつて市場を制圧した商人のギルド、その力を引き継いでいるのがエースの番号を有する豪商達である。今はもうギルドの形を残す集団はほとんど残っていない。皆無というわけではないが、探し出すのは俺の情報を以てしても難しいだろう。
コーカスレースはギルドを名乗っているものの、構成員のほとんどは他に本業を持っていたり趣味で人助けに参加していたりする者である。確かに何でも屋ではある。だが、ギルドではないと思う。俺の所見だが。
獣を助け、森の物流を掌握し、街に幅を利かせるとんちきお助け集団。おかしな鳥達だが金も権力もあるので敵に回すべきではない。
大岩の上に留まって事務所の様子を眺めていると、カナリアの令嬢が外に出て来た。
「よう、そこのお嬢さん。よければ今夜、俺と一緒に踊らねえか?」
「あら、ごきげんよう情報屋さん。お誘いいただいて嬉しいけれど、わたしは虫さんと踊る気はありませんの」
「ははは、釣れねえなぁ」
大岩から飛び、ヘレンの目の前に着地する。
「試しに一度俺に身を委ねてみろよ。鳥だってイチコロだぜ?」
「下品な人は嫌いよ。触らないでちょうだい」
伸ばした手は見事に躱されてしまった。おまけにビンタを喰らった。お嬢様の手から放たれる攻撃とは思えない威力だったが、お嬢様故に護身術は身に着けているのかもしれない。不審者の蝶は見事に撃退されてしまったというわけである。
左頬をさすっていると、ヘレンは不愉快そうに口を尖らせたまま俺のコートを軽く引いた。
「わたし達のことを探っていたの」
「まさか。大切な取引相手のことを見守っていただけさ」
「……イグナートさんに何かご用事かしら? 執務室にいらっしゃると思うけれど」
「それじゃあそういうことにしておくよ。オーナーのところまで連れてってくれ」
「いつも来ているのだし、オーナーの執務室は分かっていらっしゃいますわよね。一応お知らせしておきますが、妙に立派なドアの部屋です。わたしは今日はもう上がるのでご案内はできませんの。ごめんなさいね小汚い羽虫さん。あと、自然に人の肩を抱こうとしないでください」
「かわいいお嬢さんに案内してもらいたかったんだけど仕方ねえか。ふふ、俺はいつでも君の相手をできるから、気が変わったら声をかけてくれよな」
ヘレンは無言で俺から視線を逸らし、翼を揺らしながら岩の向こうへ飛んで行った。それじゃあ振られた寂しい蝶はオーナーのところへ向かいましょうかね。
事務所に入り、いかにも偉い人の部屋ですというような妙に立派なドアを目指していかにも高級そうな絨毯の敷かれた廊下を歩く。しばし後、妙なドアが見えてきたところで奥から声が聞こえてきた。どうやら先客がいたようである。面白い情報が手に入るかもしれないので聞き耳を立てておこうか。そう思ってドアに耳を近付けた直後、イグナートの声が響いた。叫び声にも、怒声にも聞こえる。
「答えてくれハワード!」
「落ち着け、落ち着きたまえよイグナート」
オーナーの大烏の話し相手は参謀の梟のようだ。幼馴染であり仕事のパートナーであり、兄弟のように仲睦まじい二人が言い争っているなんて、珍しいこともあるものだ。なにやら剣呑な雰囲気である。場合によっては仲裁のためにチャドじいさんやグスタフじいさんを呼びに行かなくてはならないかもしれない。
俺はドアに体を寄せて室内の様子を探る。畳み損ねた翅を少し壁に擦ってしまったが、この程度の物音では気が付かれることはないだろう。
「君は知っている。違うか? 私の……私の体のことを知っているんじゃないのか。どうなんだハワード」
「私は……私はっ……! 言うなと、言われている……」
「知っているんだな!? 誰にそんなこと言われた。誰が私のことを! 私は……私は自分が怖い。馬鹿みたいなレベルに体が頑丈すぎることも、時々記憶が飛んでしまうことも、気が付いたら血を吐いていることも。怖い。怖い。こんな思いをするなら、あの噴火で家族と一緒に死ねばよかったんだ!」
「馬鹿っ。そんなことを言うんじゃない! 生き延びたことで得たものを否定するようなことはさせない。チャドじいさんも、私も、他のメンバーも、このコーカスレースのこと、その色とりどりの宝飾品のこと、大切な思い出だってあるだろう」
「やだやだ! 説教なんて聞きたくない! どうして教えてくれないんだ!」
コーカスレースのオーナー、イグナート。一昨年の夏にバンダースナッチに首から肩にかけて盛大に肉を持っていかれ明らかに捕食されたにも拘らず、最早再生とも言える回復の仕方で一命をとりとめたばかりではなく、傷痕すら残していない。不定期に体調を崩し血反吐を吐いているが、そのことを知っている者はコーカスレース内でも一部に限られる。俺はもちろん把握しているが、この情報に関しては多額の口止め料を貰っている。
オーナーの腹心、参謀のハワード。イグナートに対して正面から意見できる有能な片腕だが、基本的に徹夜業務に追われて疲れているため彼の参謀らしい動きはあまり見ることができない。ハワードのことを掌握できればコーカスレースも怖くないのだが、おそらく無理だろうな。
「すまない、許せイグナート」
「あっ、待て逃げるな」
「君に積み重ねられた書類を整理しなければならなくてな」
会話が一瞬途切れる。そして、ドアが開いた。貼り付いていた俺は慌てて飛び退くが、身を隠すところまでは間に合わなかった。足音も気配もなく移動をしてくるとは、さすが梟というべきか。
半開きのドア越しにハワードは俺のことを睨んでいる。
「こ、こんにちは!」
「情報屋……。聞いていたのか?」
「聞いてないよ」
「いくら渡せば満足だ。望むだけ払ってやろう」
それほど重大な情報というわけだ。俺が五本の指を立て手を広げて見せると、ハワードは大きな溜息を吐いた。致し方ない、と小さく呟いたようである。
「芋虫さんが来ているのかい。そうだ、彼ならば何か情報を……っう。う……ぇ……」
「イグナート!」
えずく音にハワードが振り向き、部屋に戻っていく。蹲るイグナートは口を押えて震えており、指の間から血が溢れていた。彼の体については俺も気になるところがあるため時折様子を見に来ているが、先日の大襲撃以降発作が増えているように思えた。
コーカスレースは大切な取引先である。彼らの情報は欲しいが、あまり嗅ぎ回りすぎて関係が悪くなっては困る。しかし、知りたいものは知りたいのだ。
俺は執務室の中に入り、蹲っているオーナーとそれを介抱している腹心に歩み寄った。
「梟さん」
「なんだ。悪いが後にしてくれないか」
「レイヴンさんの体のこと、調べても構わないだろうか」
「……それは」
「くはは、やめておけ芋虫。焼き殺されたいのか?」
ハワードに抱きかかえられていたイグナートが顔を上げた。べちゃべちゃと血を吐きながらにやりと笑う。そして、血に塗れた左手をこちらに伸ばしてきた。
「私のことを探るだと? そのような不敬なことはさせぬ。代わりに我が口から直接教えてやろう。情報を貪る芋虫よ、汝に呪縛を掛けてやる。絶対に高く売れるのに、絶対に売ることのできない情報をくれてやるぞ」
黒い瞳に炎が揺らいだように見えた。赤い手が前髪に侵入してきて、俺の右頬に触れる。触られたというよりも、逃がさないように顔を掴まれた感覚である。左目だけでは右側の様子を知ることはできないため、相手の左手が俺の右側をどうしているのかは触覚に頼るしかない。
ぬちゃりとした感触を伴って、親指が俺の右目のすぐ下をなぞった。かなりの量の血が俺の顔から首にかけて伝っているのが分かる。
「私は人の子に火の鳥として崇められる者。プラーミスクの神とされる者である」
「火の鳥……。あの、不老不死の力を持つという?」
「いかにも。二十一年前の噴火は私にとっても想定外だった。甚大なる被害の出た地を訪れた際、この体の持ち主……イグナートのことを見付けた。数多の屍の中、微かに息のあったこの子を気まぐれに助けてやることにしたのだ。死にかけの幼鳥に己の血を分け与えてやったのだよ。優しいだろう優しいだろう。それに、新しい依代もほしかったからな。体を借りる度に負担をかけてしまうのは申し訳ないと思うが、それ以上に私はこいつのことを助けてやっているのだから嫌がるなど言語道断。寧ろ感謝されるべきである」
とんでもない情報である。ものすごく高く売れるだろう。シュナプセンで梯子をしまくってもお釣りが大量に出る。
イグナート、もとい火の鳥はくつくつと笑いながら親指を突き動かした。
「えっ……。やめっ……あ……」
「情報屋? おい、大丈夫か。何をされたんだ」
漆黒の翼に遮られて状況を把握できていないハワードは酷く狼狽えているようだった。彼はイグナートの状態について火の鳥から直々に説明を受け、口止めをされているのだろう。この性格の悪そうな神様もどきに何か弱みでも握られているのかもしれない。そうでもなければ、彼のことだから親切に親友の体を思って何でも教えてやるはずである。
冷静に考察でもしていないと意識が飛びそうだった。強引に眼窩に突っ込まれた親指が義眼を引き摺り出し、そのまま中に入ってくる。おいおい嘘だろ。頼むからそれ以上は奥に入れないでくれ。
「私の存在、及び私がレイヴンに血を与えていることを品物として売ってみろ。この孔から汝を焼き殺してやるからな。触らぬ神に祟りなしと、汝の好きなイーハトヴの諺にあるだろう?」
「わ、分かりました……。誰にも売りません……。だから……やめてください……」
「誰かに言いたい。誰かに売りたい。でも、誰にも伝えることはできない。情報屋の汝にとっては苦行であろう? くく、汝の欲した情報は与えた。喜んでくれたかな。……ん? 何だこの気配は。汝、この孔に……」
「ひっ……。嫌、やめて……ください……」
「何をしているのか全然見えないが、そこまでにしておけよイグナート!」
ハワードの声を受け、火の鳥が口角を吊り上げて狂気に満ちた笑みを浮かべた。俺の顔から手を離すと同時に、目を閉じて後方に倒れ込む。そして受け止めたハワードの腕の中で目を開けたのは、ぽかんとした様子のイグナートだった。口に残っているであろう血の味に僅かに顔を歪めながら、赤く染まっている手を見遣る。
「私は……また血を……。……え? 芋虫さん? えっ、何……。私が……やったのか……? 嫌だ。嫌だ、怖い。怖い。嫌だ。ハワード、ハワード。私、私は」
どこまで指を入れられた? 痛みが強すぎて触覚に集中できず分からなかった。流れ出て来る血が自分のものなのか、アイツの指に付いていたものなのかも分からない。そこにあるのはただの痛みだけである。
右目を押さえる俺と絨毯に転がっている義眼を交互に見て、イグナートはハワードを振り返る。説明を求めているのだろうが、ハワードには答えられない。「怖い怖い」と恐怖を訴えているのを抱き寄せて落ち着かせることしかできない。
「また依頼があればお気軽にお声掛けください。俺は今日は帰ります」
「情報屋、その状態では」
「大丈夫大丈夫。元々右は見えてないんだし……」
義眼を拾い上げようと身を屈めたところで、世界が捩れて歪んだ。あれ? これはちょっとヤバいんじゃね。
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