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【第百九十八面 約束してくれますか】 かぐや姫の話。
元の家族が見付かったことを告げると両親は驚喜した。喜怒哀楽、どのような感情が両親から返って来るのかと異常なほどに緊張していた僕は、何も言えないままただただ泣くことしかできなかった。
挨拶に行った方がいいのだろうか、と言う両親に彼らには何か事情があるようなので不要であることを話した。もしも両家が顔を合わせて、人ではないという大和と父の姿を見たら寺園の両親は腰を抜かしてしまうかもしれない。翅のことは両親には言っていないからだ。今後も言うつもりはない。連絡が取れるのなら僕だけでも顔を見せに行くことはできないのかという問いに、僕は何も答えずに苦笑を返した。
神山君はいつも少しだけ中身を濁しながら伝えて来る。僕にも詳細は分からないままである。大和は、父は、どこで何をしている人なのだろう。神山君はどのような手段で大和と連絡を取っているのだろうか。
「ねえ、神山君。教えて。ちゃんと話をしてくれないかな?」
「話してますよ、ちゃんと……」
「本当に?」
「……そういうちょっぴり悪そうな顔をすると一層大和さんに似ますね」
「え……。大和人相悪いの?」
頭痛に倒れた挙句、発熱した僕は大事を取って数日部屋に引き籠っていた。久方振りに店の方に出ていた今日、神山君が訪ねてきた。
現在客は来店していない。カウンターに着いて陳列している人形のメンテナンスをしながら、僕は神山君の声に耳を傾けている。興味深そうに僕の手元を覗き込む彼は、ダッフルコートのフードに落葉が付着していることには気が付いていないようである。
「落葉付いてるよ」
「どこです?」
「フード」
「あわわ。風に吹かれて飛んできちゃったのかな……。ありがとうございます、教えてくれて」
「うん」
ゴミ箱を探しているのか、神山君はそこここをうろつき始める。
「ゴミ箱はここにあるよ」
椅子を引いてカウンターの下を指し示してやると、彼は笑顔で感謝の意を述べた。幼気という言葉がよく似合う少年である。妹が「神山先輩はかわいい系」と評していたことにも納得だ。とはいえ、かわいらしさで生身の人間が人形に敵うことはない。我が子が一番だ。
落葉がゴミ箱に放られたのを確認しながら、僕は人形の髪を整える。商品である彼女に名前はない。彼女に名前を付けるのは、僕ではなく購入した人である。その人は彼女にとってどのような存在になるのだろう。主、家族、友人、それとも恋人だろうか。大切な人となる人物に名前を付けてもらうことで、彼女は僕の手から完全に旅立つこととなる。君の道行きに幸多からんことを。
人形達が新たな家に迎えられる時、僕は随喜すると共に僅かばかりの孤独感を覚える。手を離れていく子供を見送る時はいつだって嬉しくて寂しい。僕が名前を付けてしまえば、その寂寥感はより強いものとなってしまうだろう。子供達が新しい持ち主の物となるため、そして、自分を寂しさから救うため、売り物の人形には名前を付けないようにしているのだ。
「神山君、僕のことを気遣ってくれているのは分かるよ。小出しにしてくれているのは負担も少ないしありがたい。でも、ぼかしたり濁したり、曖昧に言うのはやめてほしい」
「ぼくはちゃんと……」
「本当に?」
ドレスの皺を軽く伸ばして人形をカウンターに座らせる。後で陳列棚に戻しておこう。
人形に向けていた視線を神山君に戻すと、彼は困却した様子でこちらを見ていた。彼が情報を曖昧にして伝えて来る理由は、おそらく、言いたくないからというだけだ。幾度となく教えろと言っても答えないのだから、彼自身にとって何らかの不都合な情報が含まれているのだと考えられる。僕とその家族についての話をしているにも拘らず、中継役の彼が途中で一部を遮断するのはなぜなのか。
「あうぅ……。えっと、伊織さん……。笑わないって、約束してくれますか。誰にも言わないって、誓ってくれますか」
「随分と仰々しいね。いいよ、そうしよう。だから教えてくれるかな」
神山君は店内を見回す。
「お客さんは君以外いないよ。店員も、今こちらにいるのは僕だけだ」
「……伊織さんは、ここではない場所ってあると思いますか」
「えっ?」
以前、彼に対して同じ質問をしたことがあった。物語の中に登場する所謂異世界が存在していると思うか、と。あったら楽しい、と答えた彼に僕は同意した。改めてその質問をぼくに返してきた意図は何なのだろうか。
人がいないことを確認した上で、更に警戒を強めて神山君は僕に近付いて来た。椅子に座る僕と目を合わせるように軽く身を屈める。黒目がちな大きな目が、決意と逡巡を同時に宿しているように見えた。他人に聞かれると余程困る話のようだ。場所をアトリエに移した方がよかったのかもしれない。
「あるんですよ、本当に……ここではない場所が……!」
「……は」
「あわぁ、言ってしまった……。言って、しまっ、た……。はぅ」
「どういうこと……? 物語のような異世界が実在しているってこと? 君は僕をからかっているのかい」
神山君は首を横に振った。その動作に合わせてマフラーの先が揺れる。
「そう、だよね……。そんなことしても君に利益はないだろうし……。けれど、にわかには信じがたいな」
「信じてくれとは言いません。荒唐無稽な御伽話だと思ってくれて構わないので」
「いや……」
彼の真意を確かめたくて訊き返したのだ。実際に訝しんでいるわけではない。この反応を見るに、彼はおそらく本気で言っているのだ。
ここではない場所があると思うか。その質問を投げかけたのは、彼が物語を愛する者だからである。本の中に広がる数多の世界を旅してきた彼ならば、空想めいたものにも理解を示してくれるかもしれないと思ったのだ。そうして得られた奇妙な世界があっても楽しいという答えは、不可思議な化け物である自分のことを肯定してくれたように思えた。
ここで彼の語るここではない場所を御伽話だと一蹴してしまえば、僕は自分自身を否定することになる。奇妙奇天烈なものが実在しているということは己自信が示しているのだから。
神山君は不安そうに視線を彷徨わせている。
「信じるよ、君の言うことを」
「え、あ……? 本当、ですか?」
驚嘆と安堵を織り交ぜた表情で神山君は言う。驚きよりも、幾分か安心感の方が勝っているだろうか。御伽話のような世界についての話をするかしないか、随分と懊悩した末に出した結論なのだと思われる。秘密を打ち明け、それを受け入れられた際の放心状態にも似た感覚は僕もよく知っている。
「じゃあ、えっと……。伊織さん……」
「うん」
「大和さんがいるのは……いや、あなたがいたのは、ここではない場所……。不思議の国、ワンダーランドです」
「ワ……」
ワンダーランド。
聞き取った瞬間、その単語が頭の奥深くにこびりついて離れなくなった。不思議の国、ワンダーランド。何度も耳にしたことのある言葉である。しかし自分のいた場所だと言われてから聞くと、突如として異なる意味を持つ。本の中で描かれるに過ぎないと思っていた場所が、僕の記憶を揺さ振りながら現実に滲み出して来たのだ。
刺すような痛みが走る。今倒れるわけにはいかない。神山君から、このまま聞き出さなければ。また後日だなんて、そうなれば僕は自分を恨むだろう。今知りたい。今、ワンダーランドという言葉が自分を刺激する原因を知りたい。神山君が話す気になっているうちに聞かなければ。時間が経てば彼の決意が揺らいで拒んでしまうかもしれない。
「なんだか苦しそうですよ。もしかして頭が……。今日はこの辺にして、また今度にしましょうか」
「構わない。聞かせてくれ」
カウンターの下から『御用の方はベルを鳴らしてください』の札と卓上ベルを出し、クルミ割り人形の横に置く。
「続きはアトリエで聞こう」
「長くなりますよ。あの、大丈夫ですか。すごく苦しそうなんですけど……」
「忘れてしまった記憶を引っ張り出そうとして、これが記憶ではないかと与えられて、微かに浮かぶ景色と一緒に思い出したくない恐怖まで溢れて来そうで頭は今にも割れそうだよ。けれど、君が『話そう』と決意したんだ。僕だってそれを『聞こう』と思う。耐える。耐えてみせる」
神山君の大きな瞳が揺れる。彼の思考を埋めているのは躊躇だろうか、動揺だろうか、僕に対する心配だろうか。立ち上がり、僕はカウンターから離れた。『関係者以外立ち入り禁止』のドアを開けると、沈黙していた神山君も移動を始める。
一歩一歩、歩みを進めるごとに頭が痛んだ。足で地面を蹴る振動さえも大きく頭を揺さ振っているように感じられた。
「ストーブ点けるね」
「はい。……うわっ?」
アトリエに入るなり、神山君は小さな悲鳴を上げた。その視線は人形達の並ぶ棚の手前、作業台との間に向けられている。
「びっくりした……。すごい……。近くで見ても?」
「いいよ」
ずっと部品を分けて製作していたものを昨日組み上げ始めた。まだ何度か分解したり組み直したりを繰り返しながら調整をしていく予定である。
神山君が興味深そうに凝視しているのは、彼よりも背の高い等身大の球体関節人形だ。微かに笑う口元だけが温かさを感じさせるが、それ以外は虚無だった。服はおろか髪も瞳もなく、ボディすらも中途半端な人形は静かにアトリエに佇んでいる。
「表のショーウィンドウに大きな人形がいるだろう。隣のかぐや姫は非売品なんだけど、大きい子は一応売り物なんだよね。もちろん値段は張るけれど、たまに買い手が現れる。今の子にも買い手が見つかったから、新しい子を作ることになったんだ」
「へえ……あれ買えるんですね。座っていても大きいなと思ってたけど、こうして立っていると本当に大きいですね。こんなのも作れるなんてすごいです」
「ありがとう。まだまだ修行中だけれどね」
人形達に囲まれたアトリエに入ると、頭痛が和らいだように感じられた。感じているだけだ。実際にはとてつもなく痛い。
ラグを広げ、人形を見上げている神山君を呼ぶ。
「それじゃあ、神山君からはどんな話を聞けるのかな?」
「辛くなったら言ってくださいね。ぼくが無理やり聞かせた形になって倒れられると、罪悪感があるので……」
「うん、分かっているよ。今はまだ耐えられるから、聞かせてくれるかな」
神山君は躊躇うように一瞬視線を逸らしてから、ぼくを見据えた。そして、彼は小さく頷いた。
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