二十四冊目 胡蝶

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【第百九十九面 大事な取引相手】 芋虫の話。  何があったのかと医者に問われた。不慮の事故だったと伝えた。 「しばらく安静にしてくださいね。激しい運動や、過度な飲酒等は控えるように」 「……はい」  右目を覆う包帯に手を遣ると、「触ったら傷が開くから」と止められた。前髪で隠している分には「そういう髪型なんだな」と思われるだけなのだが、包帯が見えていると明らかに怪我人であり周囲から心配されることになる。どうしたの、と顔を合わせる度に誰か彼かに言われてしまうのだろう。面倒臭いな。  医者は灰色の義眼を枕元の棚に置く。 「治ったかもしれないと思って義眼を入れたらまた出血する可能性があるので、入れ直す前に病院に来てくださいね」 「分かりました……」 「それじゃあ私はこれで。お大事に」  白髪交じりの医者は顎髭を撫でながら部屋を出て行った。入れ替わるようにして、申し訳なさを擬人化したかのようなイグナートが入って来た。ベッドの脇の椅子に腰を下ろし、俺のことを探るように見る。その視線は棚に置かれた義眼と俺の右目の包帯とを交互に見ていた。  眼窩に指を突っ込まれ意識を失った俺が目を覚ましたのは、コーカスレースの来客用の寝室だった。倒れている間に処置は済まされていたらしく、気が付いた時には俺の右目は包帯に覆われていた。俺が倒れた直後に医者を連れてきて対応させ、意識が戻ったのを確認すれば再び医者を呼びよせる手際の良さはさすがコーカスレースである。あまり動かさない方がいいと思った、とのことで病院に連れて行くよりも医者を連れてくることを選んだそうだ。 「い、芋虫さん。何も覚えていないけれど、おそらく私がやったんだろう。すまない……」 「コーカスレースのオーナー様がそんなにぺこぺこ頭を下げるもんじゃあないぜ。すぐに医者を呼んでくれてありがとな」  威厳が吹き飛び今にも泣き出してしまいそうな様子のイグナートはおもむろに財布を取り出した。とてつもなく分厚い。 「君は大事な取引相手だ。オーナーである私がこの手で傷付けてしまったのであれば、私が頭を下げるのは当然だよ。本当に、申し訳ない。今回の医療費はこちらで持つよ。あとは何をすればいいだろうか。現金かな? そうだね、現金を渡そうか……。いくら渡せば許してくれる? このくらいかな。いや、足りない。これでどうだ。芋虫さん、これでどうにか許してもらえないだろうか。足りないというのであればもっと出す」 「いや……そんなに受け取れねえよ……」 「受け取れないっ? あぁ、足りないのか。分かった。分かったよ。これでどうだろうか」 「待て。待ってくれレイヴンさん」  俺は次々と紙幣を取り出すイグナートの左手を掴む。無数の石が散りばめられているブレスレットがじゃらりと音を立てた。  布団の上に出されている紙幣は相当な額である。仕事の報酬として渡されれば喜んで踊り狂いながら飛び付くレベルだ。しかし、これを受け取ってしまっていいのだろうか。金を貰えるのはありがたい。だが、金を渡せば何でも許容して頷いてへこへこするようなやつだと思われてしまっては困る。イグナートにそのつもりはないのだろうが、俺が嫌なのだ。 「医療費だけで十分だ」 「そんなわけにはいかないよ。君の時間を二日も奪ってしまった。眠っていた間にどれだけ情報を集められていたかと思うと、その損失は甚大だよ。ええいままよ、この財布全部持ってけ」 「医療費を持ってくれるだけでいいと言ってるだろ。気が済まないのなら、今後の報酬に少しずつ上乗せする形にしてくれ。仕事を為したわけではないのに一度にこんなに受け取ってしまったら、金に弱くなっちまう……。今後の仕事に支障が出てしまうから、受け取るわけにはいかないよ」  紙幣を纏めて突き返してやると、イグナートは少し困った顔をしつつもそれを財布の中に戻した。 「そうか……。私は金を出せばどうにかなるように考えてしまうけれど、君にも君の事情があるものね……。医療費を持つ程度で許してくれるのならば、今後も変わらずコーカスレースと取引をしてくれるだろうか」 「もちろん」 「ありがとう、頼りにしているよ。今回のことは……何度謝ればいいのか……。その傷が仕事に影響しなければいいのだけれど……」 「もういいって。それに右側は元々見えてないんだからそんなに変わらないよ。包帯が頭に巻いてあるのは少し煩わしいけど、大丈夫。……ああもう、調子狂うな。いつもみたいにふんぞり返って偉そうにしてくれよレイヴンさん」 「ん……」  馬鹿みたいに分厚い財布を弄んでいるイグナートは体も翼も縮めて下を向いている。酷く落ち込んでいるようだ。彼のケアはじいさん達やハワード、そしてレベッカさんに任せるしかないので、俺にはどうすることもできない。細い指に不釣り合いなごつい指輪達が光っている。煌めいているアクセサリーとは対照的に、彼らないし彼女らの主はすっかり暗く淀んでしまっていた。  自分の体に不可解な異変が起こっており、そのことについて自分は何も分からない。分からないまま、怯え続けることしかできない。それはきっと辛く悲しく、恐ろしいことだ。俺は自分の状態を理解しているが、もしも虫の(ドミノ)が蛹状態と化すことを知らなかったらどうだろうか。原因の分からない突然の睡魔に襲われ、倒れてしまったら。  おそらく弟は……伊織は、睡魔と羽化の恐怖に震えただろう。人間ではないと知ってしまった時、どれだけ辛かっただろうか。どれだけ悲しかっただろうか。どれだけ、怖い思いをしたのだろうか……。 「芋虫さん」 「あっ」 「ぼーっとしていたよ。どこか具合が悪いのかな」  前髪と包帯の奥を覗き込むようにイグナートが言う。俺はその視線を振り払うために顔の向きを変えた。 「少し、考え事をしていただけだ。医者とも話をしたし、もう平気だからレイヴンさんは気に病まなくていいよ。もう少しだけここで休ませてもらえれば、後はもういいから」 「分かった。何かあったら声を掛けてくれ。私は執務室にいるし、父さん……チャドじいさんも戻って来たら自室にいるだろうから。みんなが出勤してくれば他にも人はいるしね。誰でもいいよ」 「うん、ありがとう」  それじゃあ、とイグナートは部屋を出て行った。  みんなが出勤して来れば、と言っていた。すなわち、今は早朝なのだ。叩き起こされ連れてこられた医者が若干不憫である。イグナートが事務所にいるということは、送迎はチャドじいさんが請け負ったのだろう。あの桁外れに強いじいさんなら蒸気自動車を猛スピードで操ることなど造作もない。暴れる車に乗せられた医者がやはり不憫だ。 「マスターに愚痴でも聞いてもらおうかな……」  夜の予定を練りながら、俺は布団を被った。  コーカスレースの所有する上質な布団にくるまって惰眠を貪った俺は、エントランスで観葉植物の世話をしていたチャドじいさんに挨拶をして事務所を後にした。その際、じいさんが「お大事に」と言って飴玉を一つくれたのだがそれが非常に美味かった。どこの何という商品なのか気になるので、今度訊ねるとしよう。  約二日もベッドと仲良しこよしになっていた体は幾分か鈍ってしまっていて、本日の仕事は困難だと判断した。適当に食事や休憩の時間を取り、日が暮れる頃に大木の根元に広がる洞窟を訪れた。蜘蛛の糸のように張り巡らされた縄を潜り抜け、準備中だと知らせる札の掛かっているドアを開ける。立て付けの悪いドアが立てる音に、カウンターの中にいた店主が顔を上げる。 「まだ準備中なのよごめんなさいねー……って。あらやだ! どうしたのよヤマト! 包帯!」  マスターは三つ編みを揺らしながらカウンターから出て来た。がっしりした手が俺の肩を掴む。 「不慮の事故」 「貴方、もしかして女の子に引っ掛かれたの? 遊び過ぎたのね? ダメよ乙女には優しくしないと。ワタシに普段しているようにね!」 「マスターは乙女じゃないし、特別優しくしてやってる覚えもない」 「もう、照れちゃって! ……じゃなくて。ヤマト、お医者さんには診てもらったの? 何があったのかは訊かないわ。でも、心配なのよ」 「ちゃんと診てもらった。小さい傷だし、しばらく安静にしていれば治る。……酒を控えろと言われたから白湯でいいよ。何かくれ」  まだ準備中よ! という声を無視して俺はカウンター席に座る。そういえば煙草については訊くのを忘れてしまったな、と考えながら煙管を出してマッチを擦っていると、カウンターに封筒が置かれた。紫煙が漂い始めた煙管を咥えて、封筒を手に取る。  犬と思しきイラストが描かれているかわいらしい封筒には『大和さんへ』とイーハトヴ文字、もとい日本語が書かれている。ひっくり返すと、そちらには『有主』という署名がされていた。 「チェシャ猫さんが届けてくれたわよ。最近その妙にかわいいお手紙にご執心らしいけど、どこの女よ。ワタシという者がありながら! むきー!」 「手紙の相手は男だし、俺はマスターとそういう関係になった覚えはない」  封を切って中身を確認する。封筒と同じ犬のイラストが描かれている便箋には、伊織にワンダーランドについて話をしたということが記されていた。異なる場所についてある程度の理解を示していること、失われた記憶を思い出そうとしたり思い出しそうになったりすると頭が痛むことには変わりがないということ、等々。そして、追伸として「等身大の人形を作っていてすごい」と書かれている。  ジュースらしき飲料が入ったグラスをカウンターに置き、マスターは便箋を覗き込む。 「それ、イーハトヴ文字? 貴方読めるの?」 「イーハトヴかぶれだからな。……あぁ、そうだ。今日は奥に泊まっていくよ」 「はいはい、ご自由にどうぞ」  そう言って、マスターは開店準備の作業に戻っていく。  便箋を封筒に戻そうとして、中にまだ何かが入っていることに気が付いた。少し厚みのある紙のようだ。片面がつるつるしている。 「これは……」  写真……?  全体に色の付いているフルカラーの写真だ。向こう側の世界には色付きの写真を現像する技術があるらしい。そこに写し出されているのは一人の青年である。湖畔に佇み、若干はにかんだ様子でカメラの方を見ている。長い髪を簪で纏めている彼は鏡に映る自分とそっくりだった。間違いない、彼が……。  オマエが生きていて、本当によかった。
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