二十四冊目 胡蝶

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【第二百面 背負い続けること】 かぐや姫の話。  貴方は異世界から来た人間です。もしもそう言われたら、大半の人は冗談だと笑い飛ばすだろう。けれど、そもそも自分が人間ではなかったら?  意外とすんなりと受け入れてしまうのだなと、自分を客観的に眺めながら思った。神山君から得た情報を己の中で反芻しながら、少しずつ消化していく。一気に飲み込んでしまえば頭痛や発熱だけでは済まない気がした。 「いらっしゃいませ。錦眼鏡(カレヱドスコヲプ)へようこそ」  リロンリロンとベルが鳴る。ドアを開けると、そこはまるで夢のような世界。万華鏡の名にふさわしい趣のある骨董品店である。 「あら、かぐやじゃない。納品かしら?」 「家具屋ではなく人形屋です」 「ふふ、かぐや姫は今日も髪が綺麗ね。嫉妬してしまいそうだわ」  白いニット帽を深く被り、白いワンピースを纏った女が微笑する。透き通るような純白の髪の間で深紅の瞳が揺れ動いていた。人間が人形より美しいということはあり得ないが、人形にしても彼女は美しいだろうと思う。骨董品の中に立っていると、彼女自身も精巧に作られた古の美術品のように見えた。  錦眼鏡は骨董品店ではあるものの、僕の作る球体関節人形を取り扱ってくれている。例え新しくとも、人形達は自然とアンティークな気配を纏うことがしばしばある。この店とは相性がいい。 「角田さんはいらっしゃいますか?」 「おじいさんはお出かけ中。なので私が店番をしているの。人形達を連れてきても構わないわよ、私が受け取っておくわ」 「分かりました」  ドアの上部に取り付けられているベルが鳴る。一旦外に出て、僕は車から段ボール箱を取り出す。 「あれ? 車? このロゴ……寺園人形店……」 「おや、伊織君かな。こんにちは」  段ボール箱を抱え、少年の声と老人の声に顔を上げる。停車中の車の前方に立っていたのは錦眼鏡の店主である角田さんと、その孫である鬼丸君だった。二人揃って買い物にでも行っていたのか、エコバッグを手にしている。温厚を具現化したように笑みを浮かべる祖父に対し、孫は若干の敵意を含んでこちらを見ていた。  僕は段ボール箱を抱え直す。 「こんにちは。人形達を連れてきたところなんです。白い彼女が対応してくれて……」 「ごくろうさま、いつもありがとね。すまないね留守にしていて。そういえば今日に変えていたんだったね」 「いえ、直前に日程変更をしたこちらが悪いので……」  リロンリロンとベルが鳴る。二人に続いて店内に入ると、白ずくめの彼女が僕の手から段ボール箱を受け取ってくれた。一昨年くらいから店で姿を見るようになった彼女は、名前も出身地も不明の謎の人物である。記憶を失ってしまったという彼女に僅かばかりの親近感を抱きつつも、何者なのだろうかと常に気になっていた。  不審者でしかない白い彼女のことを角田さんは特に気にすることもなく居住させている。一方、鬼丸君はあまり彼女のことを許容していないようだった。胡乱気に彼女を見る視線は、同様の物を伴って僕にも向けられている。 「いつもは平日に納品に来るはずですよね。だから、寺園さんに紹介されるまでアナタとは会ったことがなかった。土曜日に来たのはどうしてです。ボクに何か用があったからでは? なんですか、まだ何か? 土下座でもしてくれるんですか?」 「こらこら栞、あまり伊織君をいじめるんじゃないよ」 「おじいちゃんがよくても、ボクにとってはよくはないから」 「儂もいいとは思っていないけれど……でも、ねえ……。もう昔のことだし、あれは事故だから……。伊織君、気に病むことはないからね。……儂のこの言葉も重圧になってしまうのかな、難しい話だけれど……」  僕はポニーテールにしていた髪を簪で纏め直した。普段は垂らしている部分も全部巻き込み、団子にする。そして、マフラーとコートを脱いで傍らの椅子に置く。椅子の横に鎮座するテーブルにあしらわれている悪魔と目が合った。 「君がそれを望むのであれば」 「えっ、いや、ちょっと……!?」  驚愕し、困惑する鬼丸君の声を無視して僕は床に膝を着く。 「謝って済むことではないのは分かっている。けれど、こうすることで君の気持ちが多少和らぐのなら……」 「やめろ!」 「いてっ」  簪を掴まれ、降下中だった僕の頭は中途半端な位置で停止した。  鬼丸君の足が視界に侵入している。僕の簪を掴んだまま、彼は数秒沈黙した。店内には古びた時計の針の音が響いている。僅かな時間だっただろう。しかし、随分と長く時間が過ぎて行ってしまったように感じられた。  孫の名を呼ぶ祖父の声を聞き、ようやく手が離される。支えを失った僕は土下座こそしなかったものの、潰れるようにして床に倒れることとなった。勢いに負けて簪が落ち、髪が床に広がる。 「やめてください、そんなこと……。話があるのなら聞きますから。……書庫にいます」  祖父の手からエコバッグを受け取り、鬼丸君は一旦居住スペースの方へ向かって行った。段ボール箱を抱えたままの白い彼女がその様子を愉快そうに見ている。彼女はいつも楽しそうだ。 「伊織君……」 「悪いのは僕なんです。栞君のことを責めないでやってください」 「君は悪くないよ」 「……ありがとうございます。……えっと、こちらが納品書になります」  角田さんは「心配している」という文言を顔面に描きながら、納品書を手に取った。  店の奥にある書庫に入ると、鬼丸君は無言で僕を出迎えた。梯子の上に腰を下ろし、ページを捲っている。文庫本にしては大きく、単行本にしては薄い。絵本だろうか。  声を掛けても返答はないので歓迎されていないようである。コートとマフラーを抱えたままドアの前に佇んでいると、しばし経過してから声を掛けられた。 「……すみません。髪、汚れてしまいましたよね。掃除はしているんですが……」 「床は綺麗だったよ。大丈夫」 「……そうやって何でもない風に笑うアナタが嫌いです。屈辱的だと思ったのならそう言えばいい。言われた通りに土下座なんてしようとして、プライドがないんですか?」  読んでいた本を閉じ、鬼丸君が梯子から降りて来る。眼鏡の奥の目は胡乱と怪訝とを煮詰めたような色を帯びていた。 「プライドはもちろんあるよ。けれど、誠意を見せろと言われればやるべきだと思ったし、僕は土下座しても足りないくらいの重大な過ちを犯している」 「……忘れたって言った。何も知らないって。詳しく聞かせてやったら具合を悪くしたようだったからやめてやったのに、今更何を話しに来たんですか」  机の上に置かれた本の表紙には幼い兄妹とお菓子の家が描かれている。『ヘンゼルとグレーテル』だ。敵意どころか殺意めいたものを宿している鬼丸君と対峙していると、お菓子の家の魔女と対面しているような気分である。食虫植物の口内に片足を踏み入れてしまったようで非常に居心地が悪い。  僕は重大な過ちを犯した。謝罪をして済むような出来事ではなかったにも拘らず、あまつさえそれを忘却していたなど言語道断である。  神山君からの情報を咀嚼していく過程で、己の記憶というものに多大な欠落が生じやすいということを改めて理解した。ワンダーランドからこちらへ来る際に事故があったのだと。その詳細はまた濁されてしまったが、事故が僕の記憶力に甚大な被害を及ぼしていることは確かである。恐怖や悲哀を伴う事象に遭遇すると、その感情ごと事象を封じ込めてしまうのだ。記憶を封印していることは自覚していた。大和のことがそうだからである。  しかし、完全に封をして捨て去ってしまっていたらどうだろうか。思い出せないという自覚もなく、跡形もなく忘れてしまっていたら。中身が何もない扉をこじ開けようとすると、ただただ虚無だけが溢れ出してくる。生まれるのは混乱だけだ。  だから僕は受容することができなくて、己を化け物と称し逃げることしかできなかった。 「体の事情だし、詳細は伝えられないのだけれど……。僕は辛い出来事から自分の身を守ろうとして、その出来事を忘れてしまうことがある。二十年以上生きて来て、何度も何度も、怖いことを忘れて来たんだと思う。忘れてしまうのだから、思い出すことはできない。もう、自分の中にその経験は存在しないからだ」 「便利な頭ですね。こっちはずっと苦しい思いをしているのに」 「君が店に来て話をしてくれた時、僕は自分の記憶の棚に存在しない出来事を告げられて取り乱すことしかできなかった。忘れてはいけないことだったのに。そして、逃げた。その話は聞きたくないと、僕のことを人殺しの化け物だと思うのならそう言えばいいと」  鬼丸君はこちらを睨みつけている。  自分自身のことを理解していくうちに、彼が訴えていたことについても知るべきだと思った。忘れたままではよくないはずだ。当時の新聞記事を探した。近くの交番を訪ねた。両親にも話を聞いた。角田さんにも声を掛けた。思い付く限りのことをした。それで十分だったのかは分からない。かいつまんだことを纏め上げたものは僕自身の記憶とは言えないかもしれない。それでも、あの日あの場所で何が起こったのか、僕は知ったのだ。つぎはぎだけれど、虚無の扉の中にはあの出来事が収納された。 「僕は君の言う通り人殺しだ。この手で、君の両親を殺した。許さなくていい。ずっと恨んでくれて構わない。僕はそれを背負って生きていく」 「……あれは事故でした。謝ってほしかったんじゃない。アナタのことは憎いです。でも、話をしたかっただけなんです。謝罪なんていらない。そんな形式だけのもの、いらない。忘れたって言われてボクも取り乱してしまったし、乱暴なことをしてすみませんでした。事情は知りませんけど、覚えていないなんて酷いですよ。酷い。酷いです。……アナタも苦しい思いをしたんでしょうね。忘れてしまうほど、苦しい思いを」  あれは僕が中学生の時の出来事である。買い物だったのか散歩だったのかは不明だが、何らかの目的で外出をしていた。その途中、僕は睡魔に襲われて意識を失い車道側に倒れ込んでしまったらしい。走行中だった乗用車は突然飛び出してきた少年を躱そうとして慌ててハンドルを切り、勢い余って単独事故を起こした。乗用車に乗っていた夫婦は当たり所が悪かったらしくそのまま命を落とすこととなった。  目を覚ました僕は動かなくなっている乗用車を目にしていたはずである。自分が事故を引き起こした。どれほどの罪悪感や恐怖を覚えたのかは今となっては分からないが、跡形もなく消し去っていたのだから当時の自分を埋め尽くした負の感情は相当なものだったのだろう。 「ボク、伊織さんの作る人形が好きなんです。どんな人が作っているんだろうって、ずっと気になっていて。……あぁ、作者は寺園伊織さんというのだなと。その名前に聞き覚えがあるな、と。両親の死について謝罪してきた人形屋の名前が寺園だったな、と。まさか、後輩を通じて対面するとは思いませんでしたけど。……憧憬と憎悪。相反する感情が沸き上がって来て困っちゃいますね。ボクはアナタが嫌いです。これまでも、これからも。謝罪なんていりません。でも、もう忘れないでください。もう、二度と。覚え続けることが、背負い続けることが、アナタの贖罪だと思ってください」 「忘れないよ、絶対」 「……今はその言葉だけで十分です」 「鬼丸君、ごめ――」 「ありがとうございました。思い出そうとしてくれて。……納品された人形を確認しに行こうかな。どんな子達なのか教えてくれますか?」 「うん……。いいよ、どの子から紹介しようか」  本を戻すので先に行っていてほしいと言われ、僕は鬼丸君を書庫に残して店の方へ向かった。カーテンを抜けた先では、角田さんが僕の渡した納品書を改めて見ているところだった。白い彼女は商品達にはたきをかけている。  純白の残像を描く彼女は気分がいいのか、歌を口ずさんでいた。悲しくも美しい旋律に、耳をすませた。何の歌を歌っているのだろう。 「回れ回れ、歪な歯車。迷え迷え、時の中で。踊れ踊れ、繋がれたまま。歌え歌え、古の(うた)。くるくるくるり、きらきらら」  この歌、どこかで……。 「伊織さん、お待たせしま……。どうかしましたか」 「あの歌は何?」 「あぁ、あの人が時々歌っている歌ですよ。ボクも詳しいことは分かりませんけど。聞くのは初めてでしたか?」 「どこかで聞いたような気がして。……気のせい、かな」  僕はあの歌を知っている。知っているような気がする。どこで聞いたのだろう。微かに頭が痛んだ。どこで、聞いたんだ?
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