50人が本棚に入れています
本棚に追加
【第二百一面 何度も思うんだ】 芋虫の話。
「綺麗な蝶がいると思ったら情報屋じゃねえか。あん? どうしたんだよその包帯」
街の雑踏に紛れ込みながら人々の様子を眺めていると、陰から声を掛けられた。道行く人々の雑談なども貴重な情報源である。仕事の邪魔をされては困るので無視を決め込もうとしたが、相手に引く気はないようだった。
「ははは、分かったぞ。あれだな? オマエのことだから女の子にちょっかい出して反撃されたんだろ。ちょっぴり乱暴な子もかわいいじゃねえか」
「人の義眼引き摺り出して指を突っ込んでくるような女がかわいくてたまるか」
「痛くするのが好きなんだろうよ。分かるぜ、俺も相手が痛がってると楽しくて燻り狂っちまいそうだ。なあなあ、どいつの話を聞いてるんだよ。なんか面白いこと分かりそうか?」
「オマエの声で何も聞こえない」
商店の壁に凭れていた俺は路地を振り返る。先程から人の仕事を妨害せんとしてくる黒ずくめは、俺の睨みと溜息に悪びれもせずににやにやと下卑た笑みを浮かべていた。三角形の耳も、髪も、尻尾も黒。着ている服はもちろん羽織っているコートも履いている靴も黒い。足下には別の生き物のように蠢く影があって、鋭いスタッズの付いた首輪が彼の首にしっかりと嵌め込まれている。
ヘンリー・バックランド。首輪を嵌められチェスの呪縛から解き放たれたバンダースナッチである。首輪をしていようとバンダースナッチの姿は人々の不安を煽るため、常に物陰に潜むように行動している点には少しだけ同情してやらないこともない。とはいえ彼は人間のお貴族様の使用人なので並みの獣よりもいい暮らしをしている。やっぱり同情するのはやめよう。
クロンダイク公爵家の紋章を簡略化したブローチが黒いマフラーにくっ付いている。アイザックとプライベートでも仲のいいはずのエドウィンがクロンダイク家本邸に近付こうとしないのは、本邸にはバンダースナッチであるヘンリーがいるからである。あの無表情を極めた騎士様がバンダースナッチに怯える理由を俺は知らないが、怖くて怖くて友人の家に遊びに行けないのだから余程酷い目に遭ったのだろう。騎士様の弱点は売れる情報になるだろうが、王女様のお気に入りであるエドウィンに手を出すのは難易度が高そうだ。
ヘンリーはふさふさの尻尾を揺らしている。俺に会えてそんなに嬉しいのか。俺は全然嬉しくない。
「この間オマエが世話になってる闇医者先生がコーカスレースに拉致られるのを見た。あの時何かあったな?」
「詮索はやめろ、尻尾もぐぞ。あとあの人は闇医者じゃない。公の病院を持っているし普通の患者も診てる」
「いやいや、そうは言っても素性の分からない情報屋の目の面倒診てやってるのは大分黒いだろ。オマエ、自分が俺よりヤバい存在だって自覚あるか? 俺は貴族の使用人だけど、オマエは警察にも軍にも騎士団にも目ぇ付けられてるだろ。役場に出す書類くらいはちゃんと書いた方がいいぜ」
影の中に浮かんでいるような赤い瞳が俺を見て笑う。例え首輪をしていてもバンダースナッチはバンダースナッチである。本能が不快感を告げるため、あまり一緒にはいたくない。
ヘンリーは尻尾を振って笑いながら、包帯越しに俺の右目を指先で撫でた。
「触るなっ!」
「オマエが頼りにしてる闇医者先生も、オマエを頼りにしてるコーカスレースやユニコーンも、オマエと遊んでる女の子達も、誰も彼もオマエの素性を知らない。ヤマト・カワヒラという名前と芋虫というドミノ登録名以外は何も分からない。それって、ここに存在してるって言えるのか?」
「……どういうことだ」
「誰もオマエのことを証明できないんだよ。家族は? 家は? ヤマトって名前が本名だって証拠はあるの? 芋虫のヤマト・カワヒラって、今ここに存在している人物なの? オマエは何者なんだろうな、情報屋」
「俺は……っ」
俺はこの国には存在していないのかもしれない。
そんなこと分かっている。書類上、父は未婚のままで子供もいない。異世界人と結婚して子供が生まれたなんて言えるわけがない。だから、俺は母の姓を名乗ることで父から自分を離した。預かって育てているということにして父は俺のことを一度役場に届け出たが、子供の素性自体が不明な上それ以降の更新は行っていないし、今の俺をその時の子供だと証明する手段はない。子供は死んでしまって、どこかの誰かがヤマトの名を使っているだけかもしれないのだ。今現在の俺のことを俺であると言い切ることは俺自身と父、そして俺達親子を診続けてくれている医者にしかできない。
不意に視界が暗くなった。見えていない右側から影を撒かれたらしい。バンダースナッチの放つ質量のある影に飲み込まれたのだ。視覚情報を完全に遮断され、触覚もあてにならない。
バンダースナッチだ! という誰かの悲鳴が聞こえた。
「なあ、情報屋よう。オマエについての情報ってのは買えるのか? 坊ちゃんがオマエのことを信用していいのかどうかわからないって不安がってるから安心させてやりてえんだよ」
「生憎俺の情報は……」
「俺ぁ確かにバンダースナッチだけど、その前にクロンダイク公爵家の使用人だ。代々仕えている。坊ちゃんのためなら何だってできるんだぜ?」
「現当主は汚れ仕事の『よ』の字も知らない平和ボケだからオマエも暇だろう」
バックランド家がチェスから距離を置きクロンダイク公爵家に仕えるようになったのは数代前のことである。当時は公にできないような仕事を任されていたとのことだが、今となっては付き合いの長い使用人一族に過ぎない。
「へへ……。だからこうやって自主的に動いてるんじゃねえか。なあ、情報屋。坊ちゃんのためによぅ、オマエのこと教えてくれよ……。拷問だってお手の物なんだ。その右目の孔に影をぶち込んでやってもいいんだぜ」
「や、やめっ……!」
「ははは!」
影が霧散する。トランプが食われているとでも思っていたらしい通行人達が騒然としていたが、首輪を付けたバンダースナッチと虫のドミノが揉めているだけだと分かると何事もなかったかのように立ち去って行った。全くトランプは薄情なやつらである。
咄嗟に右目を庇った俺を見て、ヘンリーはずるりと舌なめずりをした。
「やっぱりそこが弱点かァ。やめろやめろ、そんなに怖い顔で見るなよ。俺だってオマエの情報はあてにしてるんだよ。ユニコーンがいつも教えてくれ……あー。今のは聞かなかったことにしてくれ。蹴飛ばされる……。まあ、俺もオマエを頼りにしてるってことだよ。坊ちゃんがオマエのことを気にしているのは事実だけど、オマエに手を上げるつもりはないよ」
「信用ならないな。なんだ今の舌なめずりは」
「虫を食べる趣味はないから安心してくれよな!」
「オマエと話すと疲れる。依頼や要望等、何かあれば呼んでくれ。用がないなら話しかけるな」
俺は軽く身を屈めてから、反動を付けて飛び上がった。ブーツの底に付いていた雪がはらはらとヘンリーの頭上に落ちる。
「はいはーい、何かあったらよろしくねえ情報屋さん。ばいばーい」
足元から影が噴き出し、彼の姿は笑顔と共に暗闇の中に消えて行った。気まぐれなやつだ。主への忠誠心を見せたかと思えば、やる気がないくせに人のことを痛めつけようとし、飽きれば帰る。バンダースナッチの思考回路は常に燻り狂っていて、首輪をしていても感情や表情は狂気を孕んでいる。狂気に溺れて暴れ散らかしている方が正常な状態であり、首輪によって狂気を無理やり抑え込んでいるからこそ街で暮らす彼らの情緒は不安定である。他のドミノやトランプにとっては首輪を嵌めている方が安全ではあるものの、彼ら自身の肉体にとってはどちらがいい状態なのだろう。
バンダースナッチについて考えていても時間の無駄だ。街に長居してもトランプからのいらない注目を集めてしまうので、さっさとここを離れよう。
煙管を咥えながら街の上空を飛び、俺は北西の森に降り立った。北西の国・管理国家ブルボヌールへと続く道を逸れ、森の奥深くへと入って行く。近頃相次ぐチェスやバンダースナッチの被害によって普段よりも荒れている森の中を進んで行き、ようやく目的地に辿り着く。
やや開けたところに出た。俺の目の前にはハニカム構造をふんだんに用いた建造物が鎮座している。六角形が無数に並ぶそれは、正に蜂の巣だ。かつて蜂のドミノが暮らしていた住居跡で、六角形の入口を潜れば居住スペースが内側に広がっている。一説ではそのドミノは蜂ではなくて象だったとか、象のような蜂だったとか、蜂のような象だったとか言われているが詳細は不明である。
六角形の口はいくつも開いているが、中に繋がるのはドアが付いている一つだけだ。合鍵を差し込み、俺は蜂の巣の中に入る。
「ん……? 大和か?」
「ただいま」
女王蜂が暮らしていたと思われる一番大きな部屋に、この家の現在の主が暮らしている。
「あぁ、おかえり。いつ振りかな」
「年明けに一回帰って来てる……はず」
「一生懸命なのはいいけど、たまには父さんに顔を見せてくれ。ここに一人でいるのは退屈だから……。定期的に先生が来てくれるけれど、オマエはなかなか帰って来てくれないんだから。寂しいなんて、昔は思わなかったのになあ。俺も歳を取ったのかな……」
「父さん……」
美しい青い翅を背負った蝶のドミノがベッドに横になっている。再生し続ける翅だけが生き生きとした色を纏っていて奇妙だった。翅を背負う男は、ずっと昔からぼろぼろのままなのに。
「街でリンゴを買ったんだ。食べるだろ」
「ありがとう、大和」
俺が右目を失った日、父は息子を守るために戦った。虫のドミノは翅や角等を再生させる生命力に特化しているため、戦闘能力はほとんどない。それでも、彼は必死だった。割れてしまった鏡に入って行った妻ともう一人の息子がどうなってしまったのか分からない中、せめて目の前にいる息子のことだけでも守り抜こうとした。
そして、彼は失ったのだ。自由に動き回る力を。
ベッドの端に腰を下ろしてリンゴを剥いていると、ゆっくりと体を起こした父が俺の手元を覗き込んだ。
「手慣れたものだな。そのナイフで何人片付けたんだ」
「人聞きの悪い親父だな。これはあくまで食い物に使うやつだから人に向けたことはねえよ」
幼い俺を守り続けた父は、生きているのがおかしいくらいに酷い怪我を負った。二十年経っても左腕と右脚はなかなか言うことを聞かないし、翅自体は再生するもののそれを自在に動かすことができない。誰かが隣で支えてやればある程度は動けるが、一人ではほとんど動くことができない状態である。特訓を重ねた結果としてごくわずかな距離の歩行はできても、飛翔することはもう二度と叶わないだろう。
父の視線がリンゴとナイフから移動し、俺の頭部に向けられる。
「怪我したのか。ん? しかも右目じゃないか。おい、何があった。まさかナンパした女の子に……」
「父さんまで俺のことをそういうやつだと思ってるのか」
「冗談を言っている場合じゃなかったな。どこかにぶつけたのか?」
「そんな感じ」
「違うんだな。仕事柄トラブルに巻き込まれやすいのは分かるが、体は大事にしてくれよ。それに、オマエの右目には……。その右目に、何かあったら……」
俺はキッチンから持って来た皿に切り分けたリンゴを載せ、折り畳み式のナイフを懐にしまう。
「義眼が外れてるし丁度いいや。包帯外せばすぐ見えるだろ。よしよし、ちょっと待っててくれよ……」
包帯に伸ばそうとした手を掴まれた。父は首を横に振る。
「今は外さない方がいいだろう。傷が治ってからでいいよ。……あぁ、何度も思うんだ。これからも思い続けるんだろう。オマエの顔の傷を見る度に、オマエの右目を見る度に。オマエに、もっと右側の世界を見せてやりたかった、と……」
「父さん……。俺は……俺は、左側だけでも満足だよ。父さんが守ってくれた左目は、ちゃんと世界を見せてくれているよ」
「大和……」
右手が俺の頭を撫でた。ぼろぼろの体になっても、歳を取っても、俺に身長を抜かされても、俺のことを撫でてくれる父の手は俺が餓鬼の頃と変わらずに大きな存在のままだ。小さな芋虫を全身すっぽりと包み込んでしまう大きな手に、俺はしばしの間身を委ねた。
「父さん」
「ん? どうした。甘え足りないのならもっと撫でてやろうか」
「リンゴ早く食わねえと色が変わっちまうよ」
「うむ……そうだな……」
「なあ、父さん……」
「なんだ、リンゴか? オマエも食べたいのか」
「……伊織に会いたい?」
俺の頭を撫でていた手が止まる。
父は小さく息を吐くと、リンゴを一口食べた。それからしばらく父は黙々とリンゴを食べていたが、青い瞳はしっかりと俺の方を向いていた。俺にも食べるように勧めて来たので、ひとかけ手に取る。
「母さんのことは残念だったが、伊織は元気にしているんだものな……。可能ならば……。叶うならば、一度でいいから顔を合わせたいな。体がまだ動くうちに……」
「そうか」
「オマエは会いたくないのか?」
「俺は――」
リンゴの甘さが口の中に広がる。
天窓から差し込む光に父の翅が煌めいていた。今日は少し、家でゆっくりしていこうかな。
最初のコメントを投稿しよう!