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【第二百二面 偽物なんかじゃない】 かぐや姫の話。
等身大の人形の調整を始めてから数日経った。僕の目の前には虚無に塗れた人形が立ち尽くしている。まだメイクをしていないため表情など存在していないのに、何も入っていない眼孔が僕のことを睨みつけているようにも見えた。
「お兄ちゃん、順調?」
「全然……。ずっと眠いし、ぼんやりしていて作業が進まない……」
昨日の朝、目を覚ますと背中に蝶の翅が生えていた。この後、まだ数日怠い状態が続く。
「本体は後でいいや……。先にアイを作る……」
「無理しないでね。はい、これ! 休憩中にでも食べて!」
妹が差し出して来たのは、黒をベースにしたシックな紙袋である。袋にはブランド名が箔押しされていた。微かに甘い香りがする。
「チョコレートだね」
「今日はバレンタインデーでしょ? いつもお仕事頑張ってる大好きなお兄ちゃんに贈り物!」
「あっ、そうか。今日は十四日か……。ありがとう、つぐみちゃん」
「ね、開けてみて! えへへ、ちょっぴり奮発しちゃった」
紙袋の中からは本を模した紙箱が出て来た。妹が毎年選んでくれるお馴染みのブランドのチョコレートだ。いつもは紙箱のものではなく缶のものを貰っている。
えへん、と妹は自慢げに胸を反らせた。サイドアップにしている髪が小さく跳ねる。
「奮発……? 今月のお小遣い大丈夫?」
「うん。中学生になってからお小遣いちょっとだけ増えたからね。大丈夫だよ、お母さんと割り勘だし……。そのうち全部自分のお金で出せるようになればいいんだけど」
「チョコレートにそこまで全力にならなくても……。気持ちだけでも嬉しいよ」
「でも……」
昨日、僕は熟睡していた妹を叩き起こした。任せなさいと得意げに語る妹はとても頼もしく見えて、いつの間にやらこの子も大きくなったなと感慨深かった。妹にあんなことを任せてしまっていいのかとずっと懊悩し続けて、今もまだ悩んでいる。しかし、妹の善意に答えてやるべきだとも思うのだ。この子は強い子だ。とても強い。僕なんかよりも、ずっと。
今、僕の前にいる妹は何やら逡巡している様子である。逞しい妹は頼りになるので大切だ。そしてもちろん、小さくてかわいい妹も。つぐみちゃんは今日もお人形みたいでかわいいね。
しばしの沈黙の後、妹は決意が固まったらしく僕のことを見上げて頷く。
「わたしはいっつもお兄ちゃんに貰ってばっかりだもん。わくわくも、きらきらも、どきどきも……。なのに、わたしがお兄ちゃんに贈り物をできるのはお誕生日かバレンタインくらいだし……。だから、そこには力を入れて行きたいと思うの、です!」
「助けられているのは僕の方だよ。つぐみちゃんは秘密を共有してくれているだろう」
「うん……。でも、でもね。ありがとうをちゃんと伝えたいなって思うんだ。だからね、お兄ちゃん……」
妹はチョコレートの箱を持っている僕の手に、自らの手を重ねた。
庇護欲をそそられる小さな手だ。助けられてばかりなのだから、時には兄として彼女を守らなければならないだろう。その時、僕はこの手を離さずにいられるだろうか。否、離さない。絶対。絶対にだ。
「いつもありがとう。大好きだよ、お兄ちゃん」
満面の笑みを浮かべる妹に、僕も笑顔で答える。
君は僕の大切な妹だ。僕達はきっと、偽物なんかじゃない。
○
毎日少しずつ消費していた箱の中のチョコレートが半分ほど減った頃、訪ねて来た神山君は今日の分の情報を話し終えると「これでおしまい」と言った。
「ぼくが話せるワンダーランドと大和さんに関しての話はこれでおしまいです。頭は痛くありませんか……?」
「少し痛いけど、問題ないよ。ありがとう神山君、色々と話をしてくれて。秘密にしていたかったことなんだろう? 大丈夫だったかな」
「いずれ、話す時は来ると思っていたので……。えっと、ぼくが話したことをふまえてもう一度考えてください。伊織さんは、大和さんとお父さんに会いたいですか?」
神山君の語るワンダーランドの話はどれも興味深いものだった。人間だけではなく、他の生き物の耳や尻尾、翼を持つ人々が暮らしているそうだ。文字通りのワンダーランド、物語の中で描かれているような不思議な世界だ。おそらく、彼が語った部分は彼の知るワンダーランドのほんの一部にすぎないのだろう。必要最低限のことしか伝えるつもりはないようだ。それで構わない。不要なことまで教えられて、それが失われた記憶と関連していれば何度も何度も頭痛に苦悶する羽目になるからである。
現在、ワンダーランドでは人食いの怪物による被害が相次いでいるという。危険な場所なのだと、神山君は念を押す。
「ぼくはワンダーランドへの移動手段を持っています。でも、送り込んだ伊織さんに何かあったら……。ぼくは寺園さんやご両親になんて言えばいいのか……」
「大和が守ってくれると言ったんだろう?」
「はい。でもですね……。本当に最近危なくて……。ぼくもしばらく来るなって言われて追い出されちゃったんですよね……」
「え……。そんなに?」
「連れて来いとは言われていないんです。伊織さんが望むなら、と……。どうしますか。情勢が落ち着いてからにしましょうか。それなら、ぼくも一緒に行けるんですけど……」
僕は人間ではないため、人食いの怪物に襲われる確率は半減する。危険な状態のワンダーランドへも向かうことは不可能ではないだろう。不慣れな土地なので神山君に案内してもらうことができればいいのだが、人間である彼は今のワンダーランドへは行くことができない。
急いでいるわけではない。それならば、安心して訪問できるようになってから向かった方がいいだろうか。
「会いたいかどうかと問われれば、その答えはもちろん『会いたい』だ。可能ならば、会いに行きたいな。会って話したと伝えれば、両親もつぐみちゃんも一安心するだろうし。それに、きっと……。きっと、綺麗な蝶なんだろうなぁ……」
あの日、僕がミユを手に取ったのは本能的に惹かれたからなのかもしれない。初めての人形、蒼蝶・ミユ。自作のものだと瑠璃瑪瑙が自信作だが、購入したものだとミユがやはりお気に入りだ。天鵞絨のドレスを纏い蝶の翅が生えている美しい人形である。その青に見惚れた。まさか数年後に自分の背中に同じような翅が生えて来るなど露知らず。
自分の翅は醜くも美しいものである。父親ならば、兄ならば、僕と同じような翅を持っているはずだ。それはきっと青く美しい翅に違いない。精巧に作られた人形のように、緻密で繊細で玲瓏なのだ。
「伊織さんの今日の簪も虫さんですね。前から気になってたんですけど、やっぱり蝶や蛾が好きなんですか?」
「あぁ、これか……。うん、そうだよ。蝶や蛾は翅がとても綺麗だよね。本能的に求めているのかもしれないな」
僕は簪を外して神山君に見せる。淡い青色の地に絹糸のような白い模様が描かれている簪だ。白い蛾が一匹、飾りの石と共にぶら下がっている。
「蚕だよ。お気に入りの簪なんだ」
「あっ、蚕なんですね。じゃあこの模様は糸なのかな……。……髪を下ろしていると、やっぱり大和さんに似てますね」
「そうなのかな。僕には分からないけれど……。……神山君、ワンダーランドの情勢はいつ頃落ち着きそうとか、そういうことは分かるのかな」
「んー。いつになるのかは誰にも分かりません。チェ……人食いの怪物による被害はずっと続いて来た物で、最近いつにも増して頻発しているっていう状況なので。ずっと続いていたんだから、終わりは来ないかもしれなくて……」
僕は簪を弄ぶ。石が触れ合って微かな音を立てた。
待てども待てども時が来ないのであれば、いつ行っても同じではないだろうか。このまま待ち続けて、時が来なければどうすればいいのか。例え危険であっても、今行かなければ機会が失われてしまうかもしれない。神山君が何度も念を押すほど危険なのだから、最悪移動手段が失われる可能性も無きにしも非ずである。そうなってからでは遅い。多少の危険を冒してでも、ワンダーランドと繋がっている今こそ行くべきなのではないか。
両親と妹にはワンダーランドのことは告げていない。遠い土地に住んでいて、少し治安が悪いらしいと、ただそれだけしか。会いに行けそうという話はもうしてしまった。いつ会いに行くのだろうと疑念を抱かせて、追い込まれた自分がワンダーランドのことをうっかり漏洩してしまっては困るのだ。困る。僕も、神山君も。
急いでいるわけではない。けれど……。
「今のワンダーランドに行ったら、命を落とす可能性がある?」
「ないとは言い切れません。実際、亡くなってる方は結構いるので……」
「でも、大和が守ってくれるんだよね? 片時も離れずに、僕のことを守り抜いてくれるって」
「大和さんはそう言ってましたけど……。どこまで対応できるのか……」
「僕は大和のことを信じようと思う」
神山君の大きな目がぼくのことを捕捉した。
「えっ……。今のワンダーランドへ行くつもりなんですか……!? あぁ、えっと、色々話をしてきたぼくが言うのも変ですけど……。何かあっても、ぼくは責任を取れませんよ。異世界の話なんて信じてもらえないんだから、誰にも説明できないんですよ。何か、何かあったら……。ぼくだって、我慢してるのに……! あ。あぅ……ごめんなさい。こんなの八つ当たりだ……」
「ワンダーランドは神山君にとって大切な場所なんだよね? 君が行けないのに僕が行こうとするのは悪いことをしていると思うよ。……君が大切な場所に行けないのなら、僕が君の代わりにワンダーランドを見て来よう。今はこんな感じだったよって、帰って来たら君に伝えるから。父親と兄に会えたって、両親とつぐみちゃんに教えてあげなきゃ。だから、僕は必ず帰って来る。守ると言った大和のことを信じる。あの日掴めなかった手を、掴むんだ」
離れ離れになってからも、大和は僕のことを思い続けていた。どうか生きていますように、どうか無事でありますように、どうか元気で暮らしていますように。
それに対して僕はどうだろうか。事故による記憶の欠落があるなんて、それは言い訳に過ぎない。僕は忘れてしまった。僕のことを大事に思ってくれている人のことを忘れてしまったのだ。
鬼丸君のご両親に関しては、自分の周辺から情報を集めて再編したものを改めて記憶として保存することにした。大和についてはどうすればいい? 神山君から得られる情報は今現在の彼についてだけである。本人に会うことでしか、記憶の穴は埋められない。父に会えば、自分自身について知ることができるだろう。
贈答品を渡す限られた機会のために頑張るのだと語っていた妹のことが頭に過った。僕が妹に形の有無を問わず物を渡した分、妹は感謝の意を僕に伝えてくれている。では、大和が僕のことを願ってくれたことに、僕は何を返せばいいのだろうか。
今の僕にできるのは、彼を信じることだけだ。
「僕は大和を信じる。信じてやることが、忘れてしまった僕の償いだ」
「あまり思いつめないでくださいね。忘れちゃったのは伊織さんのせいじゃないんですから」
「忘れてしまったのは事実だよ。重大な過ちだって忘れてしまうんだ。何もかも、大事なことなのに。だから、ずっと信じてくれていた大和のことを、僕も信じてやらないと……」
「過ち……?」
僕は簪で髪を纏める。
「神山君、大和に伝えてくれるかな。僕は貴方を信じているからよろしく頼む、と」
「わ……わ、分か、り、ました……。伝えておきます……」
神山君は不安と焦燥と困惑を織り交ぜながら小さく唸る。
酷なことを頼んでいるということは分かっている。神山君の身になってみれば、自らが危険なのだと再三告げた場所に僕を送り込むことになるのだから。彼に心痛と後悔を与えるわけにはいかない。だから、僕は必ずここに帰って来る。
家族と話をするだけだ。昼間ならば夜間と比較すれば怪物の出現確率は随分と下がるそうだし、屋内にいればかなり安全であるそうだ。油断は禁物だが、その危険な場所で大和は僕を守ると言ったのだ。彼の自信を、僕も信じよう。
信じてやらなきゃ……。
「……伊織さん、ぼくの知り合いに自分で自分を呪った人がいるんです。家族を守るために、自分に呪いをかけた人が。……あまり、背負い込み過ぎないでくださいね」
「呪われてなんかいないよ。これは……大和のことを信じることは、忘れてしまった僕にできる唯一のことだからね……」
神山君は酷く心配した様子で僕の名前を呟いた。
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