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【第二百三面 承知しませんからね】 芋虫の話。
パブを訪れた俺を待っていたのは役場の虫担当職員だった。鬼のような形相で書類の束を抱えている。その姿は他の客達に威圧感を与えており、皆居心地が悪そうだ。
「あー! カワヒラさん! ふっふっふ、やっぱりここで待っているのが一番ですね。今日という今日はこの書類ちゃんと書いて提出してもらいますからねえ」
「今日は酔ってないのか」
「今日はこれを貴方に突き付けるために、お酒を我慢して我慢して我慢してるんです。役場に来た人間がクソみたいなやつで獣の職員に対してとんでもなく失礼だったのでものすごくお酒で発散したい気分ですが我慢しています」
早口でそう言って、彼女は書類を俺に差し出した。店内の照明が大きな眼鏡に反射する。税金の支払いだとか、住所の届け出だとか、戸籍が云々だとか、色々と面倒臭そうな束である。
ヒルデ・リベレブラン。代々酒豪だという葡萄蜻蛉である彼女はいつも酒に溺れている。それでも家族の中ではあまり飲まない方だそうで、日中は役場で真面目に働いているところを見るに彼女にとっての酒は燃料ではなくストレス発散のためのものであることが窺える。とはいえ、飲み過ぎなのは事実だ。あの量を飲み続けているのは仕事が辛いからというだけが理由ではないだろう。本人はミンスパイが一番好きだと語っているが、やはり酒を燃料にして生きているに違いない。
俺はヒルデから受け取った書類をカウンターに放り投げた。
「あぁっ、ちょっと! 何するんですかあ」
「ヤマト、あまり女の子をいじめちゃ駄目よ。ワタシにするように優しくしなさいな」
「そうですよ! 私がどれだけ苦労してるか分かっていますよね、カワヒラさん!」
「……マスター、花の紅茶を頼む。彼女にはいつものブランデーを」
膨れているヒルデの隣に座り、注文をする。
「もうっ。……あれ? その包帯どうされたんですか」
「ちょっと色々あって」
「それなら病院に行ったんでしょうか。保険の加入申請はお済みですか。これは役場の仕事ではないけれど、保険には入っておいた方がいいと思いますよ」
カウンターに散らばる書類を掻き集めながらヒルデは言う。酔っていないと見た目通りの生真面目さがひしひしと伝わってくる。普段は見事に着崩している役場の制服も今日はしっかりと着こなしていて、その姿は立派な役人そのものである。
花の香りが広がるフレーバーティーを煽り、ヒルデにもブランデーを飲むように言う。餌に飛び付くかのように手を伸ばすかと思いきや、彼女は俺を睨みつけたままだ。グラスに見向きもしないとは、余程気合が入っているのだろう。
ヒルデはわざとらしい大きな咳ばらいをしてから、纏め直した書類を俺に突き付けて来る。
「今日は絶対に負けませんからね。今日こそ、今日こそ……!」
「ははっ、ヒルデは頑張り屋さんだなあ。お兄さん関心だよ。そんな頑張り屋さんのヒルデが役場で働きながら得た情報、俺に教えてくれる?」
「貴方本当に何者なんですか。いつもいつも、私から街のことを聞き出して……。酔ってる自分が何をどこまで教えてしまっているのか分からなくて怖いし、その情報を貴方がどうしているのか気になるし」
「ヒルデ」
俺は書類ごとヒルデの手を掴む。そのままこちらに引き寄せ、唇を重ねた。
そのうちに街にもチェスが滲み出てくるのではないだろうかと不安に思っているトランプが一定数いるようだ。森に暮らすドミノの中には、バンダースナッチやジャブジャブは自分達のことも襲ってくるから森にいたくないと訴えてくるものがいるという。役場に届く報告書や意見書は増えるばかりだ。国からの指示がない限り大きく動くことができないため、対応が遅れる役場に対して怒り散らす者も少なくない。
上層部の動きに関しては、軍や騎士団、貴族達に有力ドミノが何かしら動いているらしいという曖昧な情報しか得ることはできなかった。あくまでヒルデは役場の一職員である。この辺りが限界だろうか。今日もたくさん教えてくれてありがとな。
俺は傍らで眠るヒルデの翅を撫でる。酔っていなければ勝てるとは俺も甘く見られたものである。残念だったな、オマエの負けだ。
羽織を肩に掛け、廊下に出る。高低差によって生まれる地階の窓には薄ぼんやりとした早朝の景色が映っていた。
「あら、おはようヤマト」
出窓の枠に腰かけて煙管を燻らせていると、奥の部屋からマスターが出て来た。女神のような麗しいネグリジェから凛々しい青年の頭が生えている。
「おー、すっぴんのマスターだ。おはよ」
「ヒルデちゃんは?」
「ぐっすり寝てるよ」
「あのー。あのね? ここは一応ワタシの家だから、ほどほどにね? 貴方は勝手に居座ってるだけなんだから」
マスターはムッとした様子でそう言った。部屋を貸してくれている彼を困らせるのは得策ではない。追い出されれば拠点が一つ減ってしまう。
「はいはい、ほどほどね。了解了解」
「んもうっ、本当に分かってるのかしら」
「分かってる分かってる。……おい、ユーリさん」
「な、何よ改まって」
俺は煙管を口から離し、窓の外を指し示す。歩み寄って来たマスターは、出窓に身を乗り出すようにして煙管の示す方へ視線を向けた。
雪で白く塗りつぶされた森の一角に、赤く染まっている部分が見える。あれだけの範囲が赤くなっているということは、相当な量の血が流れたのだろう。トランプのものか、ドミノのものか。それとも、チェスのものだろうか。
マスターは小さく悲鳴を上げて後退った。
「み、見えるってことは近いのよ!? 嫌だわ! もうっ、最近ずっとこう。どうしてこんなことになってしまったの。買い出しに行くのが怖いわ」
「最初は一部の者がおかしいなと思う程度だったのに、今はもう国全体どころか周辺国にまで影響を及ぼしている。一昨年の初夏くらいからじわじわと増えてきてるんだ。その時に何か原因になるものが現れるなり発生するなりしたと考えるのが妥当だが……」
「貴方、そういうの詳しいんじゃないの?」
「生憎俺にも分からないことだってあるさ。人から情報を得るんだから、その人が知らないことは俺も知りえない」
誰だ。誰から情報を奪えば知ることができる?
自分がトランプに近い容姿であれば、もっとトランプに近付いて探ることができるのに……。
「チェシャ猫さんから手紙は届いてる?」
「届いてたら昨日渡してるわよ」
「……ちょっと催促に行ってこようかな」
想定よりも速いペースで被害が増大している。今のワンダーランドに伊織を呼びつけるわけにはいかない。
「何か適当に朝飯頼むよ。食ったらすぐ行く」
「はいはい……」
早く有主君と連絡を取らなくては。
「街で暮らして何か変わった?」
「それなりに変わったとは思いますけど……。貴方はどこから入って来たのですか?」
ティーカップを傾けたアーサーは怪訝そうに俺を見る。
「さっき双子が世間話に来てただろ。アンタが玄関の鍵を閉めるまでの隙にお邪魔させてもらったぜ」
「二人を見送るために外に出た隙に……? 油断ならない人ですね貴方は。私に何の用ですか」
アーサー・クロックフォード。トランプとドミノの間に生まれた子供である。彼の外見はどこからどう見てもトランプそのものであり、ドミノとしての特徴は人間離れした犬歯くらいしかない。それでも彼はドミノであるし、周囲からもドミノとして扱われてきたため、当たりの強いトランプのことは苦手なようだ。そして、夏の地下鉄襲撃事件の際にバンダースナッチに襲われて以降、ドミノのことも随分と怖がっているらしかった。
俺から距離を取りつつ、アーサーは紅茶を飲む。
「帽子屋さんは街に居る間に何か面白い情報を得ただろうか」
「好奇心旺盛な貴方に教えるようなものは特にありませんよ。近隣の方との交流は極力控えているので」
「そっかそっか。トランプに囲まれるの怖いもんな」
「……ヤマト。貴方、アリス君と懇意にしているようですが、あの子に変なことを吹き込んでなどいませんよね。シュ、シュナプセンとかいう破廉恥な場所に入り浸っていると聞きました。そのような人を、あの子に近付けたくありません……」
ワンダーランドに迷い込んだ有主君のことを守り、導いてきたのはおかしなお茶会の面々である。あの子がこの土地に馴染み、楽しい時間を過せていたのは彼らのお陰だ。おかしなお茶会のお陰で俺は有主君に接触できたし、その結果として伊織のことを知ることができたのだ。
感謝してるぜ、おかしなお茶会さん。
「保護者面かよ。ご立派だな帽子屋さんは」
「私……貴方のふらふらへらへらしているところ嫌いです」
「安心しろよ。俺はアレクシス君のことを大事に思っている。助けられてるんだよ、アイツに。子供に言っていいことと駄目なことの区別くらいついてるって。嫌がられて『もう教えない』って言われたら困るもんな」
「貴方とアリス君がどのような関係なのかは詮索しませんけれど、彼に悪影響を与えるようなことをしたら承知しませんからね」
「分かってるって。ところで帽子屋さん、一ついいかな」
シフォンケーキにフォークを差し込んでいたアーサーは手を止める。
「何です」
「やっぱり、半分ドミノでも見た目がトランプだったらチェスに襲われるのかな」
「……分かりきったことを訊かないでください。何度も怖い目に遭いました。思い出したくないくらい、何度も何度も」
「うわ、怒るなって。ごめんごめん」
「怒ってませんよ。全然」
やめろ、そんな笑顔で俺を見るな。イグナートと同じなんだよ。笑顔で人を威圧するのやめろ。
笑顔を浮かべたまま、アーサーはソファから立ち上がった。キッチンへ向かって歩き出し、ちらりと俺の方を向く。
「お茶でも飲んで行かれますか。折角いらしたのですから一杯どうぞ」
「いやぁ、急いでるんで……」
「私のお茶が飲めない?」
こいつ絶対怒ってるじゃねえか。
「なんなんだオマエの弟は」
「弟は帽子屋だが……」
蜂蜜たっぷりの花のフレーバーティーに絆されてついつい長居してしまった。ドミノが怖いと言いながらも、同じ室内でお茶ができるのだからかなり落ち着いてきているのだろう。
ニールは怪訝そうに俺を見ながら、かわいらしいヒヨコのイラストが描かれている封筒を差し出す。
「後でパブに持って行こうと思ってたんだ。手間が省けてよかったぜ」
「毎回ありがとなチェシャ猫さん」
「オマエ、アリスと何のやり取りしてるのか知らねえけどよ、子供に対して変なこと吹き込んだら許さねえぞ。酒も飲むし煙草も吸うし、賭場にも出入りしてるし毎晩女を侍らせて遊び歩いてるっていうじゃねえか」
「誰だそんな噂流したの。毎晩なわけないだろ」
「どこで何しようとオマエの自由だけどよ、アリスに悪影響を及ぼしたら容赦しねえからな」
ニール・クロックフォード。トランプとドミノの間に生まれた子供だが、弟とは違いこちらはどこからどう見てもドミノだ。弟のことを守り続けた挙句自らに呪いをかけた筋金入りの馬鹿兄貴である。ブリッジ公爵夫人とただならぬ関係らしいが、本人達はあくまで猫と飼い主なのだと主張しており実際のところどうなのかは不明。戦闘能力はかなり高く、肉弾戦のみならず銃の扱いにも長けている。しかしながら本気を出すことはあまりないらしく、自重している様子。先日の大規模襲撃の際に本気を出したとのことで、家にダメージを与えたのはバンダースナッチではなくニールらしい。一体どれほどの強さなのやら。
俺は食卓テーブルの脇にある椅子に腰を下ろす。
「ココアがあるけど飲むか?」
「ありがとう、いただこうかな」
封筒を開けると、中からは同じくヒヨコのイラストが描かれている便箋が出て来た。
曰く、伊織はワンダーランドへ向かう気満々である……。
「チェシャ猫さん」
「ん?」
「俺が書いた手紙をアレクシス君に届けることはできるのか」
「できるだろうけど……。というか、どうしてアリスはオマエみたいなよく分からないやつに自分が異世界から来たって言っちまったんだよ……」
「まあ色々あって」
「オマエに関しての情報は買えるのか?」
「生憎非売品ですねー」
そう言うと思った、と呟いてニールは俺の前にマグカップを置く。ココアの上には小ぶりのマシュマロが浮かんでいた。
「そういえば今朝、北東の森で羽虫のドミノ数人がジャブジャブらしき者にやられていたのが見付かったらしい。オマエも気を付けろよ」
有主君から届く手紙を確認して、次の手紙が届くのを待つだけ。向こうからの定期連絡を黙って待っているだけだった。こちらに来るよ。それは何月何日だよ。その連絡が来たら猫と帽子屋の家で待機すればいいと思っていた。
しかし、今のワンダーランドに伊織を呼ぶわけにはいかない。今はまだ駄目だと有主君に伝えなければ。
俺には、アイツを守れる自信がない……。
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