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【第二百四面 すぐ戻るよ】 かぐや姫の話。
そこは雪に覆われた森だった。
僕は背後を振り返る。追手のことは撒けたようだが、この後どうすればいいのだろう。
……あれ? 何から逃げていたのだっけ、僕は。
頭が痛い。僕は、また何か忘れてしまったのか。何か恐ろしいことがあったのだろうか。
「寒い……」
コートも、マフラーも、手袋もない。それどころか、靴も履いていなかった。かじかんだ手足からは冷たさどころか痛みが伝わって来る。
寒さによるものか、疲労によるものか、僕の頭は思考することを拒絶していた。頭が回らない。
吐いた息が白く溶けていく。
どれほどの距離を移動したのかも思い出せなかった。疲れ果てた体が言うことを聞かない。雪の中に倒れても、起き上がることができなかった。
――二時間前。
全然終わらない等身大の人形の調整をしていたところに、神山君が訪ねて来た。曰く、先日の僕の発言を手紙にしたためてワンダーランドに送付した、とのこと。
「すみません、報告が遅れてしまって。ちゃんと当日の内に出しましたから、一応」
「構わないよ。定期テスト期間中だったんだし、君にとってはそちらの方が重要なんだから」
神山君には感謝してもしきれない。事が済んだら格安でオーダーメイドのドールを作ってあげてもいいくらいだ。
「わぁ、この間より形になってる……。あれ、この人形の目は真っ黒なんですか? 伊織さんの人形にしては珍しいような。いつもはきらきらしてますよね」
「それは仮に入れてるやつだよ。全体のバランスを見るために入れてるだけ。目……アイはこんな感じになっていて……」
チョコレートの空き箱に整然と並ぶ眼球達を見せてやると、神山君は感嘆した。格子状に区切られている箱は空になれば使い道がある。折角妹がくれた贈答品なのだ、食べるだけで終了させずに有効活用している。
「全体のイメージはできている。髪型も、メイクも、衣装も。ただ、目だけがなかなか決められなくてね。悩んでいるうちにこんなにたくさん作ってしまったんだ。等身大用のサイズだから他の子には使い回せないし、この子が売れて次の子を作るまで大事に保管しておかないと……」
どこか一部分に詰まることはしばしばある。それは髪であったり、衣装であったりする。今回は目だった。
星を描いた。ハートを描いた。ラメを多めに入れた。文字を描き込んでみた。思考錯誤の末に大量の目ができた。
「神山君はどれが好き?」
「そうですね……」
「お兄ちゃんっ」
「あわぁっ!」
アトリエのドアが開き、妹が入って来た。驚いた神山君がチョコレートの空き箱をひっくり返し、大量の人形の目が床を転がっていく。
ころころという小さな音を聞きながら、その場にいた全員がしばし硬直していた。
「あ……あわ……。い、伊織さん……ごめんなさい……」
「ごめんなさい先輩、驚かせてしまって。お兄ちゃんも、ごめんね」
「拾えばいいだけだから全然大丈夫だよ。つぐみちゃん、用があるならノックしてね」
「はい……」
「何の用かな」
僕は妹に問いかけつつ、人形の目を拾う。神山君も手伝ってくれるようだ。
「宅配便が届いてたよ。たぶん人形の衣装に使う布かな……」
「分かった。アトリエの前に置いておいてくれる?」
「うん」
妹が退室し、その直後に僕達は目を拾い終えた。ところが、数えてみると一つ不足している。
箱を作業机に置き、傍らに置いてあるファイルを開く。一覧表を確認してみると、どうやら足りないのは緑色の瞳らしい。虹彩に薄水色の蝶が飛翔しているデザインのものだ。アトリエ中をくまなく探す必要がありそうだ。骨が折れるな。
「ごごごめんなさい伊織さん!」
「探せばいいだけだから大丈夫だよ。この部屋の中にあるのは確かなんだし」
「えっと、目はハート柄のやつがかわいいと思いました。あの、なんかすみません。今日はもう帰りますね。手紙の報告は済んだし……。もしかしたら向こうから何か来てるかもしれないし、確認しないと……」
「向こうから何か?」
「はい。伊織さんがワンダーランドに行く気満々だって伝えたので、『この日なら空いてるよー』とか返事があるかもしれなくて」
「なるほどね。ずっと気になっていたんだけど、どうやって連絡を取っているんだい? 君は元々行き来していたんだよね。どうやって?」
神山君は僕から視線を逸らす。
大和が人間ではないことも、ワンダーランドという場所があることも、彼は秘匿しようとしていた。それは僕が自分の翅のことを口外しなかったのと同様で、自らの身を守るためだ。夢物語にうつつを抜かしていると思われるのが怖くて、気持ち悪いと思われるのが怖くて。そして、自分の居場所を失いたくなくて。
移動手段に関しても彼は黙秘し続けている。僕は蝶の自覚があることを告白したし、彼もワンダーランドのことを教えてくれた。それでも、どのようにしてワンダーランドへ行き来しているのかはまだ言うつもりがないようだった。
「言いたくない?」
「いえ……。移動手段についてはぼく以外の人も関わってくることなので、どこまで言っていいのか分からなくて。あぁ、でも……。いざ行こうって時にいきなり見せて驚かれるよりも、先に見せちゃった方がいいかもしれないな」
神山君は自分を納得させるよう首肯する。
「やっぱりこことは違う場所だから、兎を追い駆けたり、衣装箪笥を開けたりする必要があるのかな」
「そんな感じでかなり突飛なので事前に見ておいた方がいいかもしれません。でも、もしかしたら頭が痛くなってしまうかも……」
「僕がこちら側へ来た時と同じ方法なんだね。忘れてしまった記憶に関係するものならば、確かに頭痛がするかもしれない。それなら、先に一回見て慣らしておこうか」
一度見ても慣れることはない。慣れたような気がするだけだ。だが、無防備に近付いて苦悶するより余程いい。事前に対象を理解し警戒することができれば、気分だけでも多少は落ち着かせることができるだろう。
「善は急げだ。早速見せてくれるかな」
「ぼくの部屋にあるのでぼくの家に行くことになりますけど、作業中じゃないんですか?」
「外に出て気分転換でもするよ。コートを取って来るから、ちょっと待ってて」
廊下に出ると、ドアの脇に段ボール箱が置いてあった。帰って来てから確認しよう。
自室で身支度を済ませ、アトリエに戻る。神山君もコートを着て準備万端だ。マフラーをもふもふと弄っていてなんだかかわいらしい。人形に同様の仕草をさせてもかわいいかもしれないな。
段ボール箱をアトリエに入れてから僕達は店の方へ向かった。妹が店番をしていることを伝えると、「寺園さんに挨拶をしたい」と神山君は言った。勝手口から出ようとしていたのだが、そう言われては店側から出るしかないだろう。
外套を着こんで連れ立って出て来た僕達を見て、妹は瞠目する。
「お兄ちゃん、先輩と一緒にどこかに? もしかして、元の家族のところに行くの。それならお父さん達にも……」
「今日は下見みたいな感じだからすぐ戻るよ。日程が決まったらちゃんと父さんと母さんにも伝える。もちろん、つぐみちゃんにもね」
「下見……。そっか。うん、分かった。神山先輩、お兄ちゃんのことよろしくお願いします」
神山君の父親とは仕事の関係で何度か顔を合わせたことがあった。仕事相手の家にお邪魔すると考えると緊張するが、妹の先輩の家にお邪魔すると考えれば多少は緊張も和らぐだろうか。……そうでもなさそうである。
「ここがぼくの家です」
「お邪魔します」
どうやら神山君のご両親は買い物に出かけているらしく不在だった。お世話になっているので挨拶の一つでもしておきたかったのだが、致し方ない。
そして二階にある部屋へ案内され、ぼくはそれと対面した。
神山君が見せてくれたのは大きな姿見だった。草花と怪物があしらわれている金色の枠が目を引く美しい鏡である。思わず伸ばした手で軽く触れると、鏡面が波打ったように見えた。普通の鏡ではない。
これが、扉なのだ。
僕が圧倒されている横で、神山君は屈み込んで何かを拾い上げた。
「封筒が落ちてる。……え?」
立ち上がろうとした神山君のパーカーのポケットから何かが転がり落ちた。見ると、それは紛失した人形の眼球だった。箱をひっくり返した際、ポケットの中に入ってしまったのだろう。灯台下暗しとはよく言ったものである。
申し訳なさそうに差し出してくる神山君から緑色の目を受け取り、僕はそれをジャケットの内ポケットにしまう。
「あうぅ、すみません」
「いいよいいよ、見付かってよかった。それは大和から? なんて?」
「えっとですね。……『今のワンダーランドは思っていたより危険な状態になっているのでまだしばらくは来ないでください』……って」
「大和が来るなと言うなら行かない方がいいか。こっちは一大決心をしたっていうのに。なかなか治安がよくならないね。というか悪化しているのかな」
曰く、様子を見てこちらから再度連絡をするのでしばし待たれよ、とのこと。
「ぼくは中継役を続けます。何かあればまた報告に行きますね」
神山君は便箋を封筒にしまう。
「この姿見に飛び込むと、ワンダーランドにあるチェシャ猫さんと帽子屋さんの家に出るんです。向こう側にも似たような鏡があるんですよ。こっちのと対になってるそうです」
「まるで『鏡の国』だね」
「これ……。これ、骨董品店で貰ったものなんです。鬼丸先輩のお家の骨董品店で、おじいさんから」
「錦眼鏡で? じゃあ、角田さんはワンダーランドのことを」
「いえ。この姿見の詳細は知らないようでした」
どこかから誰かによって運ばれた鏡が錦眼鏡に迷い込み、神山君の手に渡り、ワンダーランドへの扉を開いたというわけか。道中で何があったのかは気になるところだが、姿見が今目の前にあるのは事実だ。これが僕の故郷へ繋がる扉なのだ。
折角来たのだから本の話でもしよう、と神山君は本棚を指し示す。部屋を埋め尽くさんばかりに犇めく本達に囲まれていると、本好きの心が疼いた。この部屋にいると人形に囲まれている時のように気分が高揚する。錦眼鏡の書庫とはまた異なる趣があった。
姿見を見ても頭痛に襲われないのは、注意が本に向いているからかもしれない。実際には頭が痛いのに、本を見ることで誤魔化されている可能性があった。それほどまでにこの部屋にある本の量は圧巻だった。ここは最早子供部屋ではない。本の巣窟だ。
「……骨董品店と言えば、君は白ずくめの彼女を見たことがあるかな」
近くにあった『源氏物語』の文庫本を手に取りながら問いかけると、神山君は小さく首肯した。
「ありますよ。あの女の人を追い駆けてあの店に辿り着いたんです。不思議な雰囲気の人ですよね」
「彼女、時々歌を歌っているだろう。あの歌を、どこかで聞いたような気がしてね。思い出そうとすると頭が痛いんだ。だから、何か関連する物ごと忘れているんだと思うけれど」
「どこかで会ったことでもあるんですかね?」
「さあ……?」
あの歌は、確か……。
「回れ回れ、歪な歯車。迷え迷え、時の中で。踊れ踊れ、繋がれたまま。歌え歌え、古の詩。くるくるくるり、きらきらら……」
――おかえり、レイシー。待っていたよ。
「えっ。神山君、今何か言った?」
「いえ、何も……」
「気のせいかな。うわっ」
強い力で引っ張られた感覚があった。本が手から落ちてしまう。
「えっ!? 伊織さんっ、今は姿見を潜っちゃ駄目ですって!」
「待って、違う。急に引っ張られて……。引き摺り……込まれるっ……」
――レイシー、おかえりなさい。
抵抗しようとしても、僕の力よりも姿見の力の方が強いらしく歯が立たなかった。見えない手に引き摺り込まれるようにして、体が姿見に吸い寄せられる。
「伊織さん!」
伸ばされた神山君の手に縋り付こうとしたが、指先が微かに掠めただけだった。僕の名前を呼ぶ声が途中で途切れたような気がした。
◇
世界が切り替わり、聞こえる音が変化したのだ。神山君の声が聞こえなくなっている。代わりに僕の耳に届いたのは、見知らぬ男の声だった。
「だ、誰……? どうしてその鏡から……。それは、レイシーのものなのに!」
銀色の髪に青白い瞳が特徴的な少年もしくは青年である。鈍く光る銀色のローブを纏う彼は驚愕した様子で、腰に佩いた剣に手を伸ばしている。
これは大変よろしくない状況だ。
「誰だおまえ!」
「ごめんなさい!」
少年から距離を取り、目に付いたドアを開ける。廊下である。建物の中のようだが、神山君の言っていたような一般家庭とは程遠い長く広い廊下だ。部屋も多数あるようだ。
建物内部の構造を考えている余裕などない。今まさに僕に斬りかからんとしている男から逃げなければ。
廊下に出たところで、西洋風の甲冑を纏った人物数人に出くわした。和気藹々と談笑していた彼らは、僕の姿を見て一瞬で険しい表情になる。
「こいつ人間じゃない?」
「えっ、トランプ?」
「なぜここに?」
「構わん! 殺せ!」
自分の口から悲鳴にすらなっていない音が出た。ここがどこなのかは全く分からないが、刃物を向けて来る集団のいるような場所に長居は無用である。
「トランプが侵入しただと?」
「どこだ! 探せ!」
逃げなきゃ。ここから、早く逃げなきゃ!
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