二十四冊目 胡蝶

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【第二百五面 よく似ていましたよ】 芋虫の話。  父と相談し、今はまだ伊織を呼ぶべきではないという結論を出した。残念そうな父を見ると心が痛んだが、致し方ない。伊織の安全が第一である。  有主君への手紙をニールに預け、俺は三月ウサギの庭を後にした。  書くって言ってから持って来るまで随分かかったなと言われたが、北西の森から北東の森までどれくらいかかると思っているのだろうあの猫は。とはいえ俺は自分の家の所在を教えていないので、ニールは俺がマスターのパブで手紙を書いて来たと思い込んでいる可能性が高い。しかし、そうであればその日のうちに手紙を持って来るだろうとは思わないのだろうか。否、思ったからこそ随分かかったなと彼は言ったのだ。  一週間かからずに往復したのだから褒めてほしい。俺の翅はもうぼろぼろだ。  ここから南西へ向かうのは重労働だし、今日もマスターのところに泊まろうかな……。 「まだ昼間だから準備中どころの話じゃないんだけど?」  立て付けの悪いドアを開けてパブに入ると、マスターの不服そうな声に迎えられた。 「いつもの部屋貸してくれ。少し休みたい」 「もうっ……。……おかえりなさい。その翅を見た感じ相当疲れているみたいね。いいわよ、ゆっくり休ん――」  そこで、俺の体は睡魔に負けた。 「んぅ……」  漂って来る料理の匂いに目を覚ます。開店準備に追われるマスターの逞しい背中を見ながら、俺は体を起こした。店内の時計を確認すると、午後五時半を少し過ぎた辺りである。どうやらボックス席に寝かされていたらしい。  俺の体には毛布が掛けられており、傍らにトンビコートとマフラーが畳んで置いてあった。 「あら、おはよう。翅もすっかり元通りね」 「コートを脱がせてくれたのなら部屋まで運んでくれてもよかったのに」  カウンターから出て来たマスターは俺の前のテーブルに水の入ったグラスを置く。 「運んだせいで翅がぐにゃぐにゃになってもワタシ責任取れないもの。コートを脱がせてもらっただけでも感謝しなさいな。それ、いいコートなんでしょ? 皺になったら大変だと思って、翅を傷付けないようにしてひいひい言いながら脱がせたのよ」 「……ありがとうございます、ユーリさん」 「蝶って大変ね。外傷がなくても鱗粉の脱落で眠ってしまうことがあるじゃない?」 「蝶に生まれた宿命だから仕方ねえよ。代わりに美しい翅を背負っているんだ。美しい俺に似合う美しい翅だろう?」 「そうね、綺麗綺麗」  もう聞き飽きた、というようにマスターは適当な相槌を打つ。  カウンターに戻って行くマスターの背中を見送っていると、立て付けの悪いドアが音を立てた。 「あら、もしかしてヒルデちゃんかしら。ちょっとー、まだ準備中なんだけどー。……あらまあ、チェシャ猫さんじゃない。アレクシス君も一緒なのね。あらやだ! どうしたのアレクシス君!」 「は? アレクシス?」  俺はボックス席を飛び出してカウンターの前に出る。出入口の前に立っているのは、マスターの言う通りニールだった。涙を浮かべる有主君のことを連れている。 「連れて歩きたくなかったんだけど、アリスがどうしても直接話をしたいって言うから」 「や、大和さん……」 「奥で話を聞くよ。マスター、チェシャ猫さんに何か適当に出してあげて。お代は俺が出すから」 「お、気が利くじゃねえか。……アリスのこと頼んだぞ。俺には分からないことだからさ」  ニールから有主君を預かり、店の奥へ向かう。  ドアを抜けると冷たい空気が顔を撫でた。店の方は暖炉が温めてくれているが、マスターの家は閉店まで無人のため火の気がない。有主君はマフラーを巻き直している。俺もコートを着ればよかった。  俺は出窓の枠に腰を下ろした。窓の外には一面の銀世界が広がっている。新たに雪が積もったため、先日の血痕はどこにも見えない。 「大和さん、その包帯どうしたんですか」 「色々あってな。そっちこそどうしたんだよ。こっちには来れないんじゃなかったのか? チェシャ猫さんめちゃくちゃオマエのこと気にしてるみたいだったぞ。早く送り返したいって顔面に書いてあった」 「あの……。お手紙読みました。今はまだ、伊織さんを呼べないって」 「この間虫のドミノがやられたらしくてな。なんかちょっと嫌だろ?」  有主君は手袋越しに自分の手を揉むようにしている。寒いのか、手が寂しいのか。 「前に大和さん、鏡で世界を移動するって話をしていたじゃないですか。ぼくもそうなんです。あ、でも。クロックフォード家に鏡があることは誰にも言わないでくださいね」 「まあ、そうだろうなあとは思っていたけど。それがどうかしたのか」 「これで移動するんだって、伊織さんに見せたんです。その時、大和さんからの手紙を見付けたので内容は伝えました。ちょっぴり残念そうでしたけど、仕方ないねって……。でも、その後、伊織さんが姿見に入ってしまって」 「君はそれを追い駆けてきたわけか。ってことは今アイツもこっちにいるのか? どこだ。クロックフォードの家か? いや、でもそしたら家に一人になってしまうな。え? もしかして一緒じゃないのか?」 「ごめんなさい!」  勢いよく体を折り曲げ、有主君は謝罪の意を示した。  俺は出窓の枠から下りる。近付く俺に対して、有主君は一歩後退った。そんなに怯えた顔をするな。怒ってないから。 「伊織さんは自分で姿見に入ったんじゃないんです。引き摺り込まれるって言ってました。何かに引っ張られて、姿見の中に。すぐ追い駆けました。いつものように猫と帽子屋の家に出て、ニールさんに大和さん似の男の人が来なかったかって訊いたんですけど、見てないって言われました。一緒に家の中をたくさん探したし、家の周辺も探しました。でも、どこにも見当たらなくて。ぼくの持っている鏡はあの家に繋がっているはずなのに」 「別の場所に飛ばされた、と……?」 「ごめんなさい。ごめんなさい、大和さん。ぼくが、ちゃんと手を掴んでいれば」  自分の手元にある鏡は確定で猫と帽子屋の家に繋がっているのだと有主君は言う。俺の母が見付けたものや父が探したものとは勝手が違うのか、それとも違うように見えて同じなのかは分からない。今はそれを気にしている場合ではないか。  本来ならば特定の位置に辿り着くはずの鏡が、伊織のことを別の場所に飛ばした。すぐに後を追った有主君はいつも通り辿り着いている。鏡自体に何か異変が起こったわけではないのだとしたら、伊織自身にきっかけがあるはずだ。 「伊織が吸い込まれた時、何かいつもと違うところはなかったか? 有主君が通る時とは違うことが」 「声が聞こえたって言ってました。ぼくには何も聞こえなかったんですけど……。あと、歌かな?」 「歌?」 「歌を歌った直後に変な声が聞こえて、引っ張られるって……。えっと、確か。回るよ、くるん……みたいな」 「なんの歌だそれ。まあ、理由は分からないけど変なところに飛ばされたということは分かった。俺が呼び付けたのが遠因なんだし、有主君はそれに従っていただけだから気に病むことはないよ」  まだぐすぐす言っている有主君の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。 「後は俺に任せて、君は帰るんだ。伊織の家族には俺のところに泊まることになったって言っておけ。君はここに長居するべきではない。チェシャ猫さんが店の方でまだかまだかと待っている」 「でも」 「有主君が何かに巻き込まれたら困る。君のことまで守ってあげられるほど虫は強くない」 「わ……。分かりました……。ごめんなさい……。ごめんなさい、大和さん……」  君はよくやってくれた。君は悪くない。俺がそうさせたんだ。  早くアイツのことを見付けてやらなきゃ。  そうはいっても探す手掛かりが何一つない。  軽く夕食を食べ、俺はパブを出た。  ニールが家の周辺を捜索したとのことだが、有主君を連れた状態でどこまで見ることができたのだろう。割と家のすぐ近くの範囲に留まっていると思われる。実は猫と帽子屋の家に着いていて、思わず家から出てしまって、ニールがそれに気が付かなかったと仮定。そして伊織が見知らぬ土地で無駄に歩き回るようなやつではないと信じて、ひとまず三月の庭を見て回ろうか。 「いてぇ……」  無駄に広いブランシャール邸の敷地の外れを歩き回っていると、右目の奥に痛みが走った。包帯の奥、閉じた瞼の奥、何もないはずの場所が疼く。近くで悲鳴が聞こえたが、その声が男なのか女なのか、大人なのか子供なのかを判断することもできない。痛みが情報の取得を阻害する。  歩みを止めて雪に膝を着いたところで、木々の向こうから夜の闇よりも暗い漆黒の龍が姿を現した。牙や爪から液体が垂れている。おそらく血液だ。先程の悲鳴を上げた人物はきっともう……。 「ははは、奴さんのおでましかよ。いってえな……」 「ギャアアアアアス」  こいつももどきだ。誰が何の目的で模造品を量産しているのだろう。模造品のくせにしっかり痛みを与えてくるし、しっかり狙ってくるのが非常に厄介である。  逃げるタイミングを窺っていると、銃声が龍の声を掻き消した。龍の動きが止まり、破裂する。 「こんばんはぁ、芋虫さん」  弾け飛んだ破片がべちゃべちゃと降ってくる中、大振りの銃を携えたフード姿の男が歩み寄って来た。少し長めの栗毛がフードから見えており、青い瞳が闇の中に浮かんでいる。  クロヴィス・ブランシャール。三月の名を継ぐブランシャール家の嫡男。祖父を手に掛け失踪し、今はチェスの白の陣に所属している。クイーンに心酔してチェスに従っているようにも、弱みを握られて言うことを聞かされているようにも見える。その実態は不明である。一つ分かっているのは、道化じみた振る舞いが演技であるということ。あれはただ虚勢を張っているだけで、彼の本性はおとなしく真面目な男である。どちらかというと弱い。弱いからこそ、道化の仮面を被っている。  クロヴィスはジャバウォックもどきの破片をつまらなさそうに蹴飛ばす。 「もう困っちゃいますよねえ。こんなのがうろうろしてたらワタシ達だって動きにくいですよぅ」 「助かったよ、クロヴィス」 「芋虫さん。……ヤマト、君がやつと対面した時に痛みに襲われるのはなぜだ? こっそり僕に教えてくれないか」 「生憎俺自身の情報は非売品なんだよな」  他に誰かがいれば仮面を被るだろうが、相手が俺だけならば仮面は不要だ。俺達はいわば悪友で、幼い頃は屋敷を脱走したクロヴィスと時々遊んでいた。俺の右目の傷や義眼に恐れをなして距離を取る子供が多かった中、彼はそれも個性だと言って受け入れてくれた。三月の御曹司に対して他と区別することなく接する俺といると、彼も気が楽だったのだろう。まさか友人が疾走してチェスになって帰って来るとは思わなかったが。  まだ微かに残る痛みに耐えながら俺が座ったままでいると、クロヴィスはフードを脱いで隣に腰を下ろした。 「おぉ、どうしたどうした? 休憩なんて珍しいな。ついでに白の陣の情報でも教えてくれるのか?」 「教えるわけないだろう。まあ世間話くらいはしてやるよ」  兎の耳が風に揺れる。 「夕方、うちの基地にトランプが侵入したんだ。居合わせた数人が追ったんだけど、あと一歩というところで外に逃げられた。まだ日があったからそれ以上追うことはできなかったんだ。その報告を何人ものポーン達に延々と聞かされて、それを纏めて陛下に報告した。どこのトランプか知らないけど、混乱している様子だったから基地の位置はばれてはいないと思う。全く面倒な仕事を増やしやがって……」 「中間管理職は大変だな。戻って来るつもりはないのか」 「僕はもうあれから逃れることはできない。あの人を裏切ることも……」  クロヴィスはブーツの先でジャバウォックもどきの破片を突いた。周囲に散らばっていたそれらは徐々に影となって消え始めている。チェスも、バンダースナッチやラースも、最期は質量のある影となって消滅する。  こいつはどうなのだろう。こいつの体は、まだ兎なのだろうか。 「クロヴィスさーん! クロさん! 帰りますよー。どこです?」 「おっと、後輩が呼んでる。じゃあね、ヤマト。せいぜいバンダースナッチ達には気を付けることだ。君の亡骸の処理なんてしたくないからね。……よし。はいはーい、こっちですよー! ランス君、ワタシはここですよー!」  立ち上がったクロヴィスの顔に道化じみた笑みが貼り付けられる。昔はぎこちない笑みだったのに、今はもうすっかり道化師だ。その笑顔をどれだけ塗り重ねて来たのだろう。  クロヴィスの声を聞いて、鈍く光る銀色のローブを纏う男がこちらへやって来た。俺のことを見て一瞬驚いた様子を見せたのは、日々行動を共にしている白のナイトである。 「そのドミノはどうしたんですか」 「どうもしませんよォ、ちょっと居合わせただけの通りすがりのドミノさんです。こちらに攻撃してくるつもりはないようなので放っておきましょうね。無駄な戦闘は無駄な体力の消耗になりますから」 「その人、情報屋の蝶ですよね。駄目ですよドミノに情報を漏らしたら。……そういえば基地に侵入してきた変なトランプ、そこのドミノとそっくりでした。顔立ちが……目元がよく似ていましたよ」 「おいランスロット、そのトランプについて詳しく教えろ。オマエの望む情報と交換してやるから。基地ってのはどこにあるんだ。森のどこだ。それとも街か」 「な、何だこのドミノ……! 教えるわけないだろ! 行きましょうクロヴィスさん」  ランスロットはローブを翻すと、逃げるように去っていった。クロヴィスは俺のことを気にする素振りを見せたものの、すぐにその後を追った。チェスから情報を聞き出すのはやはり難しいか。  非常に嫌な予感がする。よりにもよってチェスの本拠地に飛ばされていたとは。  オマエはそこからどこに逃げたんだ、伊織。
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