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【第二百六面 新しく踏み出す手助け】 かぐや姫の話。
月へ帰ったかぐや姫は地球での記憶を失ってしまった。月から見える地球に思い出せない誰かの姿を重ねながら、日々を過ごす。月か、地球か、どちらが彼女にとってより良い場所だったのだろう。
そしてかぐや姫は帰還する。忘れ去った地へ。
私は忘れてしまったけれど、私のことを知っている人がいるだろう。私はその人のことを知らないけれど、その人はきっと喜んでくれるだろう。
楽しい時間を過ごして、また月に戻ったら。
また、忘れてしまうのだろうか。
地球のことを忘れたくないのに。大切な人がいるのに。けれど、月には彼女の帰りを待つ者がいる。そちらも大切な人なのだ。
私は――。
僕は、つぐみちゃんのお兄ちゃんだ。
そして、大和の弟だ。
どちらも自分だ。どちらも、失いたくない。忘れたく、ないのに……。
○
頬を涙が伝っている。何か悲哀に満ちた夢でも見たのだろうか。
「あれ……?」
自分は今どこにいるのだろう。
ここまでの経緯を思い出そうとすると頭が痛んだ。覚えているのは、神山君の部屋で姿見を見たところまでだ。その直後にいつもの睡魔で眠ってしまったのだろうか。否、その後に何か恐ろしいことがあったに違いない。そのため、記憶が欠落してしまっているのだ。
どうやら自分はベッドに寝かされていたらしい。枕元に置いてあったスマートフォンに向かって伸ばした手には包帯が巻いてある。身に覚えがないが、怪我をしたのかもしれない。
「ん……。圏外……」
充電も残り僅かである。表示されている時計が合っているのかも不明だ。念のためにスマホの横にあった腕時計を確認すると、電波式のアナログ時計はスマホと同様に沈黙していた。
徐々に覚醒してきた意識を周囲に向ける。生活感のない部屋である。自分の座っているベッドと、申し訳程度のテーブルと椅子、そして小さな棚。あとは暖炉があるだけだ。薪は煌々と燃えており、僕の体を温めてくれている。暖炉の手前に置かれている椅子の上に服が畳んで置いてあった。現在自分が纏っているのは寝間着のようだ。
ひとまず服を着てから周辺の状況を確認するとしよう。ベッドの脇に置かれていたスリッパを履こうとして伸ばした足には、手と同様に包帯が巻かれていた。
手指の痛みを伴ったものの、着替えは可能だった。両手足一遍になんて、どこで何が原因で怪我をしたのだろう。気になるが、包帯をむやみに解くべきではない。
服と一緒に置かれていた簪で髪を纏め、僕は部屋を出た。
部屋の外はドアの並ぶ廊下だった。洋燈の灯る薄暗い廊下はどこか妖しげな雰囲気を感じさせる。数人が廊下を往来しており、ドアの向こうからは微かに人の声が漏れ聞こえていた。アパート、もしくはホテルだろうか。香水や煙草、酒の匂いが入り混じって空気中を漂っている。
「おっ、綺麗な髪の姉ちゃんじゃねえかぁ。へへっ、たまんねえな」
「うひぃ!?」
廊下を見回していると、背後で男のねっとりとした声が聞こえると同時に太い指でうなじを撫でられた。
「ああ? なんだよ男かよ。紛らわしいな」
中年の男は僕の声と顔に残念そうな反応をする。くたびれたコートを畳んで腕にかけている彼の背には、半透明の翅が背負われていた。
改めて周囲を確認すると、廊下を歩く者達は男も女も翅を背負っている。コスプレの集団ではないと思われる。なぜなら、彼ら彼女らの翅は時折開閉するようにして動いているのだ。正真正銘の虫の翅だと考えるのが妥当だろうか。
「でも綺麗な兄ちゃんだな。外套を着てないってことは客じゃなさそうだし……見ない顔だけど新入りか? ドミノの巣窟で働くなんて物好きなトランプもいたもんだ。よしよし、おじさんが歓楽街シュナプセンについて手取り足取り教えてやろう」
「え……? 何?」
下卑た笑みを浮かべる男に腕を掴まれた。寝起きの体では抵抗することもままならず、僕は壁に押し付けられてしまう。嫌らしく蠢く指が腕を撫で、酒臭い息が顔にかかる。恐怖と混乱に肌が粟立ち、悪寒が走った。
「見れば見るほど綺麗だ。たまにはトランプで遊ぶのもいいかもしれねえ。怯えた顔もたまんねえな。いや待てよ? オマエの顔、どこかで……」
「ちょっとお客さん! お客さんがお客さんのこと襲っちゃ駄目よ! もうっ」
駆けて来た女が中年の男のことを叱責すると、彼は僕から手を離した。下品な笑みを女に向ける。
「なんだよ客かよ。じゃあマーカラちゃんが相手してくれるのかな?」
「ごめんねー。アタシ今日はそこのお兄さんと約束してるんだ。他の子に声かけてみて。空いてる子はまだまだいるからさ」
男は笑ったままその場を立ち去って行った。女は身を屈め、腰が抜けてへたり込んでいる僕に目の高さを合わせる。
煽情的な衣装を纏った女である。体のラインがはっきりと出ている薄いドレスの胸元が大きく開いており、目のやり場に困った。日々人形のボディは目にしているものの、生身の人間の体をこれほどまでに見せつけられるとやはり動揺してしまう。美しいのは人形の方なのに、艶めかしいのも人形の方なのに。不格好な人間に惑わされるなど屈辱である。
女の細い指が僕の目元を拭った。
「泣くほど怖かったか。まあ怖いよね。あのおじさん迫力あるからさ」
「た、助かりました。ありがとうございます……」
「あぁ、でもよかった。アンタずっと目を覚まさないかと思ったんだから。おじさんのおかげでアンタが目を覚ましたことに気が付けたわね」
「あ……。もしかして、貴女が僕をここに……?」
「そうよ。アタシが雪の中からアンタを助けてあげたの。廊下で長話してたらみんなの邪魔になっちゃうから、部屋に戻りましょ」
まだ腰が抜けていた。女に引っ張られ、支えられながら先程の部屋に戻る。
暖炉に薪を追加しながら、彼女はマーカラと名乗った。マーカラ・ブラッドリー。背中に薄く細長い翅を背負っており、口元には鋭利な牙を覗かせている。
「あの……。もしかして、ここはワンダーランド?」
「そうよ。アンタもしかしてここがどこだか分からないのかい? 変な事故にでも遭って記憶喪失になったとか? 大丈夫?」
「あ、大丈夫です……。ちょっと混乱してるだけなので……」
どうやらここはワンダーランドらしい。
神山君は姿見の向こうに世話になっている人の家があると言っていたが、ここは一般住宅ではない。男が言っていたように歓楽街の一画なのだ。忘れてしまった時間に何があったのだろう。どうして僕はこんなところに……。
「アンタ、自分の名前分かる?」
「いお……。イオです。イオといいます」
「イオね。分かったわ。三日……いや、もう日付が変わってるから四日ね。四日前の夕方、雪の中に倒れているアンタを見付けたのよ。コートも手袋も靴もなかった。体はすっかり冷え切っていたし、手と足は軽い凍傷になってたわ。あぁ、大丈夫よ。ほんとに軽くだから、すぐよくなるわよ。……身元の分かるものがなかったし訳アリっぽかったから、ひとまずここに運んだの」
「ありがとうございます。助かりました。貴女は命の恩人です、マーカラさん」
大袈裟だよ、とマーカラは笑う。
「店に泊まってアンタの看病をした甲斐があったわね。おっと、心配しないでおくれよ。アンタの体に手は出してないから。アタシはちゃんと仕事とそれ以外の区別が付いてるからね。でも、少しだけ肌を見てしまったのは許してね。立派な服で寝ていたら体が痛くなってしまうと思って、着替えさせたから……。ねえ、その時に見えたんだけどね? アンタ、トランプのふりしてるけどアタシと同じような虫のドミノだろ。無理やり翅を毟り取った痕が背中にあったよ」
先程から何度か耳にしているトランプとドミノという言葉。おそらく、トランプは人間のことでドミノはそれ以外の動物の特徴を持つ者のことだろう。マーカラは僕の背中を見た。そして悟った。僕が人間ではないと。
「偶然見付けたとはいえ、翅のない奇妙なドミノを助けたのはどうしてですか? 事件性があるとか、考えなかったんですか」
「うーん、誰かにいじめられたのかなとか、何かあったんだろうなとか、色々考えたわよ。変な道具持ってるしね? でも、連れてきちゃったもんは仕方ないしね。それに似てたから……好きな人に……」
「好きな人……」
「んもうっ、探るような目で見ないでよ! 秘密だよ! ……ねえ、イオ。体の具合がよくなるまでここにいていいよ。ここは困ったやつらが新しく踏み出す手助けだってできる場所なんだ」
「ありがとう……ございます……」
神山君の知り合い、もしくは大和と早く接触しなければならない。四日も帰宅していなければ両親も妹も心配しているだろう。神山君も責任を感じているかもしれない。目的を果たすため、そして早く帰還するため、動く必要がある。
しかし、右も左も分からない状態で「お世話になりました」と言ってここを飛び出しては、すぐに迷ってまた倒れてしまう可能性がある。急がなくてはならないが、一旦状況を理解しなければ。
致し方ない。しばしの間ここに置いてもらおう。
「客の相手をしろなんて言わないから安心してね」
少しずつ、彼女や他の店員、そして客から情報を集めよう。蝶が蜜を集めるように、僕は情報を集めよう。どこかで大和、もしくは神山君の知り合いに繋がるかもしれない。
起きたばかりだから話はこれくらいにしておこうね、とマーカラは言う。彼女が見付けてくれなければ、僕は雪に埋もれて死んでいただろう。感謝してもしきれない。
マーカラさんか……。よく見ると人形みたいに妖艶な人だな……。
きっと、子供達は僕のことを待っている。きっと、人形達は寂しがっている。父はしばらく帰れそうにありません。どうか許してください、愛しい子達よ。
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