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【第二百八面 僕は知っている】 かぐや姫の話。
ワンダーランドに飛ばされて今日で七日目。寺園の家族がどうしているのか心配である。
しかし、今はどうすることもできない。この店で有益な情報を得る、もしくは自分で移動できるようにならなければ何も進展しないのだ。
何もせずに置いてもらうことは非常識だと考え、何かできることをすると申し出た。その結果、事務仕事を手伝うこととなった。帳簿の写しを抱えながら、マーカラに店内を案内してもらう。
「イオ、ぼーっとしてるけどどうした?」
「少し考え事を……。すみません。続きをお願いします」
「アンタさ、無理はよくないよ。こういうところちょっと苦手だなあって顔に描いてある」
「でも、今はここにいるしかないので……」
「どうしても見られない、聞けない、触りたくない、とかがあったらちゃんと教えておくれよ」
マーカラは優しく微笑した。妖艶な女性である。均整の取れた肢体は見る物を魅了し、あらゆる欲をそそらせる。客からの人気も高いそうだ。人形のように妖艶だ、とは思うが僕自身はさして彼女に狂わされてはいない。彼女よりも鈴柘榴や虹奏の方が美しいという自信があるので、生身の女に惑わされることはないのである。やはり人形こそが至高。人形が一番。
不気味で妖しい店で働いている虫達は、男も女も皆美しい。その美しさで獲物を惑わしているのだろう。近付けば最後、彼らの毒の餌食になるか、血を啜られるか。好き好んでこの店に来訪する客達の気が知れない。なぜ金を払って被害に遭いに来るのだろう。
店員に喰われる他にも何かできるのだろうか。いや、これ以上考えるのはやめておこう。ドアの向こうから漏れ聞こえてくる声を遮断しながら、前方を行くマーカラの後を追う。
「ね、イオ。この人がうちの上客だよ。アタシの大事な常連さんだ。とっても美味しいんだから」
マーカラは客の男を指し示す。早くオマエも挨拶をしろ、と言わんばかりに背中を押されて僕は一歩前に出た。
「あ……。あの……初めまして、イオ、です……」
顔を上げた僕の視界に飛び込んできたのは、美しい蝶の翅を背負った男だった。長い前髪が顔の右半分を隠しており、その隙間から包帯が覗いていた。西洋、特にイギリスに近いような文化を持っている国なのだとばかり思っていたが、眼前の男が纏っているのはトンビコートに着物に袴である。日本風の国もしくは地域も存在しているのだろうか。しかし注目するべきは彼の服装ではない。
彼は、僕と同じ顔をしていた。背中の翅も僕が毟っているものとよく似ている。
唖然としていると、不意に手を掴まれて引っ張られた。帳簿の写しが床に落ちる。
「伊織……!」
僕は知っている。この手を、この声を。手は随分と大きくなってしまったけれど、声も低くなってしまったけれど。
「大和……?」
薪が爆ぜる音に目を覚ました。
「ん……」
「おっ、気が付いたか?」
「うわっ!?」
突然視界に侵入して来た影に驚愕し、僕は飛び起きると同時に後退した。勢い余って壁に背中をぶつけてしまった。
「悪い悪い、起きてすぐ声かけられたらびっくりするよな」
「や、大和……。大和、なの?」
ベッドに手を付いて身を乗り出している男は、僕の質問に答える代わりにブーツを脱ぎ捨てた。そしてベッドに上がると、朗笑しながらこちらに迫って来る。壁際で狼狽する僕のことを更に追い詰めるようにして距離を詰めた男は、躊躇することなく僕の足に跨った。
膝立ちの状態の男が左目だけで僕のことを見下ろしている。恐怖心はもちろんあった。しかし、それよりも高揚感の方が勝っていた。
「オマエ、この店の新入りらしいな」
「あ……。行く当てがなくて、置いてもらってて……」
男は覆い被さるようにして体を寄せ、僕の顔を両手で包み込んだ。美しい翅が彼の存在を大きく感じさせた。戦慄か、愉悦か、自分の体が小さく震えているのが分かった。
「俺はここの上客だ。たくさん金を払って来た。そして、女性従業員は全員落として来た。……なあ、オマエ。綺麗な顔してるな。事務員、まして男なんて普段は相手にしないんだけど……」
「え……?」
顔から離された手が肩に置かれる。逃がさないという意志を感じた。
まさか、このまま襲われ――。
「本当に綺麗な顔だ。美しい俺にそっくりだ」
抱き締められた。
「会いたかった、伊織」
忘れてしまった。何もかも失ってしまった。思い出そうとしても、思い出すことができなかった。欠落してしまった記憶が蘇ることはないだろう。
それでも、僕はこの温もりを知っていた。
「く、苦しい……」
「あぁっ、ごめんな! いやぁ、驚かせて悪かった。自分と同じ顔がどういう反応するのか見てみたくてな」
僕から体を離し、彼はにひひと笑った。知っている。この笑顔を僕は知っている。
「改めて。初めまして、俺は河平大和だ」
「寺園伊織と言います。初め……。久し振りだね、大和」
「あぁ、久し振りだな。よかった。よかった、オマエがこうして生きていてくれて。また、会うことができて……」
溢れて来た涙を僕に見せたくなかったのか、誤魔化すように大和は再び僕を抱き締めた。
再会の喜びを分かち合った後、僕達は互いの近況報告と状況説明を行った。
「チェス? いや、よく分からないな……。気が付いた時にはマーカラさんに助けられてここにいたから」
「有主君の言ってた通りか。怖い記憶を丁寧に切り落として行くんだな」
「うーん……。それに関連する大事なことも一緒に失くしてしまうから内容によっては困るんだけどね……。家族のこととか……」
店の廊下で大和と対面した際、僕は激しい頭痛に襲われて意識を失った。実際に顔を合わせたことで失われた記憶の空白が刺激されたのだと思われる。驚いたと言って大和は笑っているが、倒れた僕にずっと付いていてくれたのだから内心では相当心配していたのだろう。
会話をするのは約二十年振りで、それに加えて僕には幼少期の記憶はない。しかし、僕達の間に壁はなかった。まるで忘れたことなどなく、定期的に交流を繰り返していたかのように会話が弾んだ。
家族四人で暮らしていた時のこと。父と母のこと。家族が巻き込まれた事件のこと。僕と母がいなくなってからの大和と父のこと。僕の今の家族のこと。
「その小さい板みたいなのはそっちの道具?」
「うん、そう。電話」
「電話? へえ、こんなに小さい電話があるのか」
大和は興味深そうにスマートフォンを見る。
「便利そうな道具も持ってて、あそこに掛かってるみたいないい服も持ってて、今のオマエは幸せに暮らしているんだな」
「母さんがどうなったのかは分からないけれど、僕のことだけでも助けようとしてくれたんだ。感謝しないと……」
「オマエだけでも無事でよかったよ……。そういえば、人形を作ってるって有主君に聞いた。腕がいいらしいな」
僕は椅子から立ち上がり、ハンガーに掛けていた自分の服に手を伸ばした。同じ服ばかり着ていられないので、今は借りものを着ている。
僕がこちら側に持ち込めたのは、スマホと腕時計、着ていた服、簪、そしてポケットに入っていたこれである。
「これ」
「ん。目だな。眼球だ。ふうん、蝶が飛んでるのか」
「人形に使う目だよ」
「等身大を作ってるって話だったけど、確かにこれなら人の目と同じくらいか。これくらいあればここの孔にも入るんじゃないか」
「どこの孔?」
人形の目から顔を上げた僕の視界に、はらはらと包帯が落ちて来る。
「ここだよ」
「あ……」
前髪が上げられていた。大和の顔の右側には額から頬へと右目を貫くように走る大きな傷痕があった。見開かれた瞼の間に眼球はなく、何もない孔が僕のことを捕捉している。先程過去について語っていた際、事故の時に負傷したと彼は言っていた。おそらく、この傷がそうなのだろう。僕が記憶を失った時、大和は右目を失ったのだ。
眼窩の奥で何かが光ったように見えた。確認しようとしたが、瞼は閉じられ包帯が巻かれてしまう。
「普段は義眼を入れてるんだ。今はちょっと、色々あって……」
「人形の目は人の目には入れられないよ。形が違うから」
「調整すれば使えるかな。オマエの作った目を入れれば、オマエが向こうに帰ってからも一緒にいられるような気がして。……うん? なんか気持ち悪いこと言ってるな俺。あー、なんだ、その、感動で頭がおかしくなったのかもしれない。気にしないでくれ」
「……どうなんだろう。調整すれば使えるのかな。分からないけれど……」
僕は人形の目を掛けている服のポケットにしまう。
その後も暖炉に当たりながら談笑していると、今夜は自分もここに宿泊すると大和が言った。時刻はもう午後十一時半だ。元々泊まるつもりで来たのだと彼は呵々大笑する。
上客なのだとマーカラが言っていたのを思い出し、僕は双子の兄の趣味嗜好に若干の嫌悪感と不快感を抱いた。僕が目を覚ました時の行動も脳裏にまざまざと蘇って来る。彼が双子の兄でなかったら唾棄すべき変質者として判断していたかもしれない。否、悪く考えるのは避けた方がいいだろう。良く考えればいいのだ。
そうだ、光源氏だと思えば女に手を付けて回るのもまた趣のある恋愛上級者ではないか。うん。
「オマエのことはちゃんと送り届けてやるからな。でも、その前に明日は父さんのところに行こう。父さん、待ってるからさ」
「うん、そうだね。僕も父さんに顔を見せたい」
眠くなるまで、もっと話をしよう。お互いが見たこと、伝えたいこと、最近面白かったこと。
忘れてしまった幼い頃も、そうやって眠りに付いたのだろうか。『竹取物語』を諳んじながら、僕達は目を閉じた。
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