二十四冊目 胡蝶

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【第二百九面 変わっていないところ】 芋虫の話。  母はよく『かぐや姫』の話をしてくれた。お気に入りのお話なのだと楽しそうに語っていた姿を覚えている。母が遺した文庫本は、今でも俺の宝物である。片割れの絵本は伊織が持っている。『竹取物語』は俺達の思い出の物語だ。  月を見るたびに悲しくなるんだ。  布団にくるまりながら、伊織はそう言った。かぐや姫が地球のことを忘れてしまうように、自分はワンダーランドのことを忘れてしまった。手元にあった絵本に覚えていない家族の姿を思い描きながら、月を仰いだ。失ってしまったことが恐ろしかった。覚えていないのに大切だった。戻りたいのか、戻りたくないのか。思い出したいのか、思い出すのが怖いのか。月を見上げるたびに、欠落した記憶を想って心が苦しくなった。けれど、それと同時に安心した。  大好きだからね、『竹取物語』も、綺麗な月も。  枕元の椅子に腰かけていた俺は窓の外を見遣る。今夜は曇っていて月はよく見えないな……。 「大和」 「うん?」  音の鳴らない小型電話を大事そうに持つ手には包帯が巻かれている。電話の盤面が微かに発光しているように見えたが、すぐに暗くなってしまう。 「あぁ、やっぱりもう駄目か。充電が……。……望遠鏡越しに撮った月の写真を見せてあげたかったんだけど」 「それ電話だろ? カメラじゃなくてさ」 「電話で写真も撮れるんだよ」 「なんだそれすごいな」  伊織は残念そうに小型電話をブレスレット型時計の横に置く。あの時計もなんかすごそうなんだよな。 「大和、もっと聞かせて。君のこと、この国のこと」 「忘れてたことに関連する話題になると頭痛くなるんだろ? 明日……っていうか今日の朝は早いし、あと少しだけな」 「ふふ、少しだけでもいいよ。楽しみだな」  にこりと微笑んだ顔に、幼い頃の姿が重なった。俺もオマエも随分と大きくなってしまったけれど、きっと変わっていないところもあるんだろうな。  早朝、俺達は店を出た。近くのパブのマスターを叩き起こして朝食を摂り、森へ向かう。 「ここから街の外側を回って北西へ向かい、そこから隣国へ続く道を国境に向かってしばらく行く。わりと国境に近い方なんだよな、家があるのは」 「これはどれくらいかかる道のりなのかな」 「途中で休憩を挟むのと、オマエを連れていることを踏まえると……二日はかかるかな……。街の北西側からならすぐ着くけど、まずここから北西に行くのに今日一日使うから……」 「夜の森は危険なんだよね? 野宿するわけ?」 「いや、日が暮れる前に一度街に侵入する。俺はちょっと危ない立場にいるからオマエにも迷惑をかけちまうかもしれないけど、変なやつに食べられるよりはいいだろ」  伊織は難しい顔で地図と睨み合っている。  鏡を見なくても俺の美しい顔が目の前にあるのは最高だな。双子の弟がこんなに美しいのだから、やっぱり俺は美しいのだ。 「とてつもなく不安だけど、君を信じるしかないよね。僕は君を信じるよ、大和。僕のことをしっかり守ってくれ」 「おう。お兄さんに任せなさい」  簪で纏められている髪が揺れる。白い蛾の飾りが朝日を受けて煌めいていた。  伊織がすぐ傍にいて、俺のことを見て俺に話しかけている。夢じゃない。あの日、割れた鏡の中に消えて行った弟がここにいる。幻じゃない。こうして触れることもできる。 「あひゃぁっ!?」 「うわすげえ声出るな」 「え? え、何? え?」  目を白黒させ、首筋を守るように手を当てながら伊織が飛び退く。地図に意識を集中させていたため、俺の奇襲に気が付かなかったのだろう。そこまで驚かれるとは思わなかった。 「す、すごいぞわぞわぁって来たんだけど……」 「いやぁ、丁度いい所にうなじがあったから」 「あー、その手さばきで女の子を落として来たわけね。危ない手だね……。弟にじゃれついてる暇なんてないよ。待ってるんでしょ、父さん。折角早く出て来たのに、余計な時間を使いたくないよ」  俺のことを軽く睨みながら、伊織はマフラーを巻き直した。防寒着や靴はシュナプセンで揃えたものだ。完治していない凍傷をこれ以上冷やしたくないので、俺が徹底的に暖かいものを選んでやった。よく似合っている。 「……急いでる?」 「急いでる……。早く、帰らないといけないから……」  そうだ。こいつには帰らなければならない場所がある。ずっと一緒にいられるわけではないのだ。 「伊織はやっぱり向こうがいいのか?」 「……分からない。分からないけれど、今の家族に何も言わずにここに残ることはできないよ」 「大事な人達なんだな」 「うん。とても」 「……有主君宛てに、オマエと合流できたと手紙を出した。明日か明後日には向こうに着くと思う」 「そっか。ありがとう大和」  昨晩もそうだった。今の家族の話をする時、伊織はとてもいい顔をする。伊織が長い時間を共に過ごして来たのは寺園家の人達だ。俺が有主君を通して接触するまでは、俺と父のことは知らなかったのだ。誰か分からない元の家族に過ぎなかった。会えて嬉しいと口では言っているものの、「俺が兄貴だよ」と言って現れた蝶のことを本当はどう思っているのだろう。俺は伊織のことを知っているのに、伊織は俺のことを知らないのだ。俺に向ける笑顔は本物なのか……?  いや、駄目だ。駄目だ大和。そんなこと考えるな。 「大和」 「あっ」 「早く行こう」 「あぁ、そうだな」  折角会えたのに、疑っちゃ悪いよな。 「暴れると落ちるからおとなしくしてろよ」 「落ち……? おわっ」  オマエが忘れてしまった分、俺がしっかり覚えているから。だから、大丈夫。大丈夫だよ、伊織。  地図を手にした伊織のことを抱き上げる。 「ちょっと!?」 「あー、やっぱり女の子よりは重いかー」 「は? まさか飛ぶんじゃ……」 「しっかり掴まってろよ」  雪の積もった地面を蹴って飛翔する。翅を大きく動かした俺の耳に飛び込んできたのは、叫び声にすらなっていない音だった。  飛んで移動しては休憩し、飛んで移動しては休憩し、日が暮れる頃に警察に追われながら街に入り、適当な宿で夜を明かした。日が昇ると共に軍人に追われながら街を脱出し、飛んで移動する。 「本当に綺麗な翅だね」 「美しい俺によく似合っているだろう?」 「そうだね。とても綺麗だ」  俺は自分の翅を誰かに毟られたことも、自分で毟ったこともない。どれほどの痛みと倦怠感を伴うのかを、俺は知らない。 「家着いたら服脱げ」 「え」 「背中、診てやるから」 「あ……。ありがとう」  しばらく飛んで行くと、ハニカム構造をあしらった建造物が見えて来た。家の前に着地し、伊織を下ろしてやる。 「蜂の巣だね」 「住んでるのは蝶だけどな」  建物の形に興味津々の伊織の手を引いて、俺は家に入った。突然手を掴んでも嫌がる素振りはない。こうして手を繋いで歩いていると、昔のことが思い出された。  お花畑が満開だよと言う母に誘われて、俺と伊織は仲良く手を繋いで母に付いて行った。しかし絶賛芋虫中だった俺は花よりも雑草に夢中になって周辺の緑を貪り食っていた。お花も綺麗だよと言って摘んだ花を笑顔で差し出して来た伊織に容赦なく飛び掛かり、その花も食い散らかした結果、俺達は激しい兄弟喧嘩を繰り広げることとなった。悪いことをしたとは思うが、反省するつもりはない。  かつて女王蜂が暮らしていた立派な部屋に入る。ベッドに横になっていた父が、俺に気が付いて体を起こす。 「大和、おかえ……。……え。そちらは?」 「ただいま父さん。ほら、オマエも顔見せてやれ」  俺が促すと、伊織は父の状態に若干戸惑いながらベッドに歩み寄った。治らない深手を負ったことは既に話していたが、実際に目にすると驚くのは当然だろう。 「こ、こんにちは。伊織……です……」 「伊織……。伊織なのか! あぁ、こんなに立派な大人になって。……おかえり」 「ただいま……。ただいま、父さん」 「すまない、俺はあまり動くことができなくて……。もっとこっちへ来てくれるか」  父は目の前に伊織がいることを確かめるように、頭を撫で、顔を撫で、肩を撫でた。何度も頷く父の目には涙が浮かんでいる。 「確かに、ここにいるんだな……。大きくなったなぁ」 「ごめんなさい。僕、父さんのこと何も覚えていなくて……」 「大和からだいたいのことは聞いているよ。あ、そうだ。伊織、オマエの部屋はそのままにしてあるんだよ。大和、連れて行ってあげなさい」 「分かった。行こう、伊織」  子供達に泣いている姿を見せたくないのだ。ここは父に従って、俺達は一旦部屋から出るとしよう。  入り組んだハニカム構造の中で迷ってしまわないように、俺は伊織の手を取った。 「あ。嫌だったら言ってくれよ。いい歳して男二人で手ぇ繋いでさ」 「いいよ。ずっと妹の手を引いていて、引かれるのは新鮮なんだ。こうしていると忘れてしまった昔を思い出せそうでね……。全然、思い出さないけれど……」  向こうでは兄でも、今は弟だ。双子だし、歳も顔も同じだけれど、俺は兄貴だからな。ここにいる間はオマエの手をこうして引いてやろう。ここにいる間だけでも、離れないようにしよう。
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