二十四冊目 胡蝶

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【第二百十面 一緒なら悲しくないね】 かぐや姫の話。  大和が案内してくれたのはかわいらしい子供部屋だった。小さな箪笥に、小さなベッド。枕元にくたびれたクマのぬいぐるみが置いてある。 「ここが僕の部屋?」 「というか、俺達の部屋だな。あのベッドは元々二段ベッドだったんだよ。オマエが行っちまった後、二人で使う部屋に一人でいるのが寂しくてさ。ベッドをばらして隣の部屋に移ったんだ」  何年も使用されていないはずの家具類にはほとんど埃が被っていなかった。定期的に掃除をしてくれているのだろうか。  部屋を見て回っていた僕は、棚の中に収められている人形達に目を留めた。銀色の、おそらく錫製の兵士の人形数体が整列している。十九世紀頃のポピュラーな男児向け玩具である。そして、兵士と一緒に小振りのドールハウスが置かれていた。少女の人形が一人椅子に腰かけている。そちらは女児向け玩具だ。  人形達を眺めていると、背後から近付いて来た大和がそっと僕の肩を突いた。 「そのドールハウスと女の子な、オマエがどうしても欲しいって言うから父さんが買ってくれたやつなんだ。兵隊の方は俺とお揃いで誕生日に貰ったやつなんだけど、こっちは確か一緒に街に行った時におもちゃ屋で見付けたんだよ」 「僕が欲しいって言ったの?」 「あぁ。綺麗だから、って。兵隊のことも女の子のことも綺麗でかわいいって言って喜んでたから、今のオマエが人形作ってるって聞いて驚いたよ。忘れちまっても、思い出せなくても、オマエはオマエだよ。あの頃と同じだ」  昔から人形が好きだったのか。しかしミユに出会うまでその気持ちすらも忘れてしまっていたのだ、僕は。大和は「変わっていないところもある」と笑っているが、きっと僕は変わってしまった。「俺が兄貴だよ」と言って飛んで来た蝶は口では喜んでいるけれど、本当は僕のことをどう思っているのだろう。  否。否、駄目だ。折角会えたのに疑うなんて。 「人形が好きだったなって思い出させてくれたのは蝶の翅が生えた人形だった。綺麗な青い翅だったんだ」 「覚えていなくても、潜在的に残ってたのかもしれないな。俺の美しい翅が記憶の奥底にこびりついてたんだよ」 「小さい頃は芋虫だったんだろう? 残ってたとしてもそれは父さんの翅だよ」  六角形の窓からは雪原の様子が見渡せた。かつては虫の(ドミノ)が数多く暮らしていたが、怪物――黒い龍だったらしい――が僕達一家に襲い掛かった際に周辺住民にも被害が出たそうだ。その後皆が逃げて行き、このベイカー家のみが残ることとなった。酷い怪我をしていた父のことを助けてくれたのは、今も懇意にしている医者だけだったという。他の者は皆一様に父のことを元凶だと言って侮蔑した。人間(トランプ)を伴って暮らしていたおかしな蝶が、恐ろしい怪物まで連れて来た、と。 「伊織、背中見せてくれるか」  窓辺に歩み寄って来た大和が指先で僕の背中をなぞる。 「翅を毟り続けるなんて、少なからず体に影響がある。そのうち体が壊れちまうぞ」 「でも、翅があったら暮らせないから」 「それは分かってる。本当はやめてほしいけど、やめろとは言わない。ただ、状態を見せてほしいんだ」 「飛んでる時に何か言ってたよね。翅のことをよく分かっている人に確認してもらった方がいいかもしれないし……。分かった」  シャツのボタンに手を掛けるが、上手くボタンを掴むことができない。指の感覚はもう戻っている。しかし、まだ細かい作業には時間がかかってしまう。  もたもたしていると、大和の手がこちらに伸ばされた。人を脱がすことに手慣れ過ぎている兄が酷く猥雑な存在に思えて来るので、不自由な父を手伝っているから慣れているのだと自分に言い聞かせることにした。 「はー、なるほどな。マーカラから聞いてたけど、確かにこれは随分と惨い痕だな」 「んぁっ、駄目っ……。待って、待ってそんなに触らなっ……。痛っ……!」 「一回こっちの虫ドミノ専門の医者に診てもらった方がよさそうだけど……」 「翅を毟るなって言われるだろうね」 「いつもどうしてるんだ?」  ボタンを留めるのも大和が手伝ってくれた。着せることにも慣れているらしい。 「自分で外したり……妹に手伝ってもらったりしてる。止血した後、消毒して包帯で押さえてるけど……」 「妹ちゃん、いい子なんだな」 「つぐみちゃんはとってもいい子だよ。僕にはもったいないくらいの」 「へえ、つぐみちゃんっていうのか。かわいい? 将来有望?」 「やめろ、人の妹を狙おうとするな」  身形を整えて、僕は改めて部屋を見回す。全く覚えていないけれど、僕はこの家もこの部屋も知っている。知っているような気がした。  家なんて見てしまったら酷い頭痛に襲われるのではないかと警戒したが、杞憂だったようである。一昨日の夜に倒れて以降、強い痛みは感じていなかった。あの一撃で強烈に刺激された結果、鈍感になってしまったのかもしれない。頭自体に異変がなければいいのだが。 「伊織」 「何?」  呼びかけに応答して振り向くと、大和が包帯を外していた。長い前髪が上げられており、眼球のない右目が僕のことを見ている。 「オマエ、あまり背中見せたくないんだろ。オマエの背中を見たから、俺もこの右目について教えてやるよ」 「鏡……。割れた鏡で怪我をしたんだよね?」 「あぁ、そうだ」  日常的に人形を見ている。四肢がばらばらであったり、首と胴が離れていたり、それこそ眼球が入っていなかったりする。しかし、それが人間だとやはり生々しい。  距離を詰めて来た大和が左手で僕の右肩を掴んだ。勢いそのままに、顔を近付ける。鼻先が触れてしまいそうだった。 「見えるか」 「みっ、見えっ……」 「見るんだ。見たくなくても見ろ」 「うぅ……。何か、光ってるよね……奥の方で……」  窓から入る日差しを受けて、孔の奥で何かがちらちらと光っている。発光しているというよりも、光を反射していると表現した方がいいだろうか。  手が離される。数歩後退して、大和は包帯を巻き直した。 「でかい破片が小さい俺に直撃して右目ごと顔を抉った時、俺にぶつかった衝撃で鏡は更に砕けた。その結果、小さな破片が一つ、奥の奥に突き刺さって抜けなくなっている。一回でかい病院で抜こうとしたんだけど、これ抜いたらヤバくね? 刺さったまま安定してるんだからその方がいいんじゃないか? ってなって、そのままになってる」 「鏡が刺さってるの……?」 「もう一回見るか」 「いやいや、結構です」  大和は包帯越しに右目を軽く撫でた。 「割れてしまった鏡に不思議な力は残っていない。俺に刺さっているのはただの鏡だ。けれど、これは俺達家族を繋いでくれている鏡なんだ。オマエと母さんが帰って行った鏡なんだ。だから時折、父さんは俺の右目にオマエと母さんの姿を思い描くんだよな……。映っているのは、俺の内側と覗き込んでいる自分の目なのにさ……」 「痛く……ない……?」 「痛みはない。もう馴染んでる」  あの右目は虚無を宿しているのではない。あの空いてしまった孔に、僕達を繋ぐ欠片が残されているのだ。  思わず手を伸ばした。大和はそれに答えるように僕に近付く。  この右目に何が映っていたのだろう。この右目に何を封じているのだろう。刺さった鏡に、どれほどの思いが詰まっているのだろう。  包帯を押さえる彼の手を、僕はそっと撫でた。 「あれ……。大和がいない……」  深夜、水でも飲もうかと起き上がった僕は隣の布団が無人になっていることに気が付いた。今夜は三人で話でもしようと父が言ったため、僕と大和は父の部屋に布団を敷いていた。他愛もない話をするうちに眠ってしまったようだが、隣の布団に大和の姿がない。父はベッドの上でぐっすりと眠っているが、大和はどこへ行ったのだろう。  カーディガンを肩に掛けて立ち上がり、ふと窓の外を見ると美しい青が見えた。家の裏手の雪原に大和が一人で座っている。  コートを羽織って外に出ると、大和は僕に気が付いて瞠目した。煙管を手にしており、周囲に紫煙が漂っている。 「煙草吸うんだね」 「なんだ、起きたのか。こっそり一服しようと思ってたのに」  煙管を咥えて空を見上げる姿は浮世絵のようである。 「今日は満月じゃあないけど、綺麗な月だよな」 「月を見るたびに悲しくなるけれど、一緒なら悲しくないね」 「へへ、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。ここならすぐ家に入れるし、変なやつが出て来てもすぐ逃げれば問題ねえよ。オマエもどうだ、貰い物の葉巻があるけど」 「僕は煙草は吸わないよ」 「そっか」  煙管を燻らせている大和から少し距離を取って腰を下ろす。昔もこうして一緒に月を見上げたのだろう。覚えていなくても、新しく経験することはできる。これが新しい記憶になる。  明日、もとい今日は夜が明けると共に東へ向かって移動する予定である。神山君の知人であるクロックフォード氏の家には姿見がある。それを潜れば、僕は帰ることができるのだ。僕を送り届けた後、大和は右目を診てもらいに病院に行くと言っていた。父はまた一人になってしまう。もう少ししたら家に戻って、父の隣に戻ろう。出来る限り長く一緒にいよう。  風に揺れていた大和の髪が跳ねた。触角のように跳ねている部分が、それこそ何かを感知した触角のように跳ねたのだ。 「何か来る……。噂をすれば影ってか。早く家に戻るぞ」 「分かっ……」 「ギャアアアアアス!!」  立ち上がると同時に突風が吹いた。枝も枯れ葉も雪も舞い上がる。おどろおどろしい何者かの叫び声に本能が危険を察知する。  早く早くと言う大和に促され、僕は家に向かって駆け出した。 「家に入れば大丈夫なんだよね、大和。……大和?」 「っく、あ……。あぁっ……!」  家の表に回るところで後ろを振り返ると、大和が倒れ伏すのが見えた。右目から血が滴っている。落ちる赤が雪を染めて行く。  何……? どうしたの、大和……?  駄目だ。頭が回らない。思考が焦燥に埋め尽くされて行く。怖い。分からない。何が起こっている?  動揺しているうちに、それは姿を現した。木々を大きく揺さ振りながら、黒く大きな何かがやって来た。龍だ。龍以外に適切な言葉が思い付かなかった。爛々と輝く赤い瞳。鋭利な牙と爪。髭のような角のような顔と頭の突起物。長い首に太い尾。大きな翼。  体中が恐怖に侵食され、僕は腰を抜かしてしまった。逃げることはおろか、立つことすらできない。倒れている兄に手を伸ばすこともできなかった。  龍の傍らに三角形の耳と尻尾を生やした人物と、鳥の翼を生やした人物が立っている。 「伊織、逃げろ……!」  彼らは僕には気が付いていないようだった。今ここで逃げ出せば、おそらく僕は助かるだろう。しかし大和のことを置いて逃げていいのだろうか。  あの日、僕は大和に手を伸ばした。恐ろしい龍や怪物達に父と大和が襲われるのを見た。一緒に逃げよう。一緒に、日本という場所に逃げよう。けれど、その手は届かなかった。届く直前に、世界は砕け散った。  早くここから逃げなきゃ。 「大和を置いて行けない」  早くここから逃げなければ。自分だけでも逃げなければ。 「大和、一緒に行こう」  僕は生きて帰らなければならない。 「もう離さない」  兄を助けている余裕なんてない。 「大和!」  逃げろ。逃げろ、伊織。大和のことは置いて行け。 「一人じゃ嫌だ!」  一人で逃げろ、伊織。 「大和っ!」 「馬鹿っ、戻って来るな!」  逃げなければと思っているのに、体は大和の方へ向かっていた。体が言うことを聞かない。頭では覚えていないのに、体はあの日のことを覚えていたのかもしれない。  もう、この手を離してなるものか。あの日取れなかった手を取るんだ。  混乱していた。動揺していた。自分の思考と行動が噛み合わない。 「来るな! 伊織!」  大丈夫だよ、大和。僕が一緒だ。だって僕達は双子じゃないか。生まれた時から一緒じゃないか。 「無理無理! 無理だって! 止まってくれ、僕!」  大和は僕のことを守ってくれた。だから、僕だって大和のことを守るんだ。 「嫌っ、待っ……! あぁ、あぁ、大和……。大和!」  右目を押さえて蹲っている兄の腕を取った。直後、怪物達がこちらに飛び掛かって来た。  あの日と同じだった。しかし、あの日とは違う。僕はしっかりと大和のことを掴んでいる。このまま引っ張り起こして、家に戻るのだ。  もう大丈夫だよ。僕の、大和――。  兄が僕の名を呼んだ気がした。それは酷く、辛く悲しい音だった。
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