二十四冊目 胡蝶

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【第二百十一面 この手を離してなるものか】 芋虫の話。  誰か、これが悪夢なのだと言ってくれ。  誰でもいい。これは夢なんだと言ってくれ。頼む。  これが現実なわけないんだ。 「あ……あぁっ……! い、伊織……!」  状況を理解することを脳が拒んでいた。  バンダースナッチ、及びジャブジャブによる攻撃を受けた弟が倒れ込んで来た。鋭い爪によってコートも服も皮膚も斬り裂かれ、止めどなく鮮血が溢れて来る。  俺は咄嗟に伊織のことを抱き寄せた。抱え込むようにして追撃から庇う。  チェスの眷属は人間(トランプ)だけでなく(ドミノ)のことも襲う。では、その場にトランプとドミノが並んでいたらどうするのか。優先して攻撃されるのはトランプだ。トランプの体はドミノよりも脆く崩しやすい。本能に従って暴れているように見える奴らだが、下手にドミノに手を出して反撃されるよりも、トランプを落とす方が容易いと考える頭はあるらしい。  バンダースナッチとジャブジャブを翅で弾き返し、伊織を抱いたまま体勢を立て直す。右目の痛みは続いており、強引に体を動かした。 「やまと……」 「喋るな。動こうとするな」 「や、大和!」 「なんだよ」  怯えているのではない。焦っているようだった。伊織は俺の右肩を叩く。  右? 右がどうかしたのか……? 「そこの羽虫、右側が全然見えていないみたいだな」  右に誰かいる。足音も、気配も、何もなかった。見えない故に、右側に関しては他の感覚を研ぎ澄ませているつもりである。しかし全く気が付けなかった。  視界の外側から伸びて来た腕に掴まれ、俺は伊織から引き剥がされてしまった。右目が痛すぎて踏ん張りが利かない。この手を離してなるものかと大事に抱きかかえていたのに、いとも簡単に剥がされてしまった。  俺の手から離れた伊織に掴みかかったのは、大振りの弓矢を携え、派手なシルクハットを被った男だった。男は伊織の首を掴み、持ち上げる。人間の力ではない。ジャバウォックもどきとバンダースナッチ達が男の登場によりおとなしくなっている。音も気配もなく影に紛れて現れた。あれはチェスだ。  このシルクハットの男についてはある程度調べてある。  本名は不明。チェスの黒の陣に所属するビショップの駒である。ジャバウォックもどきと一緒にいるところをよく目撃されており、その服装が酷似しているためアーサーが間違えられて逮捕される騒動があった。ビショップの存在が周知されたのはかなり最近になってからである。こいつに関しては謎が多いが、ジャバウォックもどきを使役しているため黒の陣に置いて重要な役回りに着いている可能性がある。また、伝承の竜ジャバウォックそのものについても何かしら知っていると思われる。 「……こいつもジョーカーではないか」 「うぅ……っ」  ビショップは伊織の首を掴んだまま揺さ振った。呻き声と共に、周囲の雪にぼたぼたと血が落ちる。 「やめろ……。伊織を……離せ……!」  ビショップのことを突き飛ばして伊織を取り戻したいのに、俺の体は動かなかった。右目を抉る痛みが自由を奪う。  正直、油断していた。チェスが現れようと、バンダースナッチが現れようと、家に戻れば問題ないと考えていた。だから、外に出て来た伊織のことをそのまま隣に座らせていたのだ。まさか、ジャバウォックもどきが現れるとは思っていなかった。  ジャバウォックもどきと対面すると俺の右目には激痛が走る。ないはずの目が痛む原因として思い当たるのは、突き刺さっている鏡である。あの日、ジャバウォックは姿見を破壊した。時折見る夢の中でもジャバウォックは俺の目を狙っている。アレの狙いは鏡なのだ。力なんてもうないはずの破片にすら、あの怪物は反応して見せるのだ。  鏡がジャバウォックに反応しているとも考えられるだろうか。ジャバウォックと鏡の関係性については分からないが、奴が現れると俺が動けなくなるということは分かっている。分かっていたのだ。  来ないと、思っていた。  一緒に月を見上げて浮かれていたのかもしれない。これは俺の不注意が生んだ結果である。俺のせいだ。  守ってやると言ったのに。  やはりまだ呼ぶべきではなかったのだ。来てしまったものは仕方ないと思っていたが、合流してすぐ送り返せばよかったのかもしれない。父に会わせるべきではなかったのだろうか。しかし、父も伊織も嬉しそうだった。間違っていない。俺は間違っていないはずなのだ。  どうして引き返した? どうして逃げなかった? どうして俺を助けようとした?  あぁ、そうか。  オマエは、あの日俺の手を取れなかったことをそんなに後悔していたのか。 「ジョーカーじゃないなら用はない。余分なトランプは邪魔になるから、ぱぱっと始末しちゃいましょうね」 「う……」  助けてくれと言うように伊織の視線が俺に向けられた。  オマエが俺の手を取ろうとしたのなら、俺は――。  俺が、オマエの手を取ってやろう。  痛みを押して立ち上がる。俺がいるのはビショップの攻撃範囲外だが、先程からこちらの様子を窺っているバンダースナッチ達が動く可能性は大いにある。仕掛けるならチャンスは一度だ。一か八か、随分とリスクの大きな賭けだが、やるしかない。 「伊織から手を……」 「やっぱりオマエ、右側が見えていないんだな」 「えっ……」  右側からぶつかって来た何かに、俺は突き飛ばされた。立ち上がる間もなくそのまま押さえ付けられ、腕に噛み付かれる。 「んぐぅっ……!」 「ドミノに用はない。そこでおとなしく食われていろ」  バンダースナッチとジャブジャブが数人、束になって食らい付いて来た。虫を捕食するつもりはないようだが、殴り、蹴り、噛み付き、俺の動きを封じている。  ビショップは左手で伊織のことを掴んだまま、自在に動く影を使って弓に矢を番えた。 「やはりアリスを見付けないと……。白の陣より先に……。アリスでもジョーカーでもないのなら、破り捨てるだけだ」 「伊織から手を離せ!」 「ひゃっはははぁ! ばいばーい!」  弓が弾かれる。 「伊織っ!」  ビショップの上機嫌な笑い声の直後、質量のある影で生み出された無数の矢が攻撃範囲一帯に降り注いで来た。バンダースナッチを振り払った俺の目に映ったのは、影に飲み込まれる伊織の姿だった。赤が散る。赤が垂れる。赤が飛ぶ。  そして、傷だらけの伊織が雪の上に倒れた。周囲の雪がものすごい勢いで血に染まって行く。 「あれ? もう終わりか。なあ、まだだろ? まだ楽しませてくれよ。トランプ遊びは楽しいよな。何して遊ぶ? なあ、なあ、なあ! ぅひゃははははぁっ!」  ビショップは伊織の長い髪を掴み、強引に体を起こさせた。動かされるたびに血が溢れて来る。 「あぁ、でももう飽きたな。こんなところで道草食ってて予定に遅れたら困るし、この辺にしておくか。こんなに冷たくて静かな冬の夜は、俺の琴も美しく鳴くだろう。じゃ、とどめを刺しておこうね」 「このっ、離せ!」  食らい付いてくる奴らを羽撃きで吹き飛ばし、俺はビショップ目掛けて駆け出した。雪の上に落としてしまっていた煙管を拾い上げ、飛び掛かると同時に火皿を押し付ける。手袋と袖の間を的確に打つと、さすがのチェスも熱さに驚いたのか手から力が抜けた。その隙に伊織を奪取し、抱きかかえたまま雪の上を転がる。  この手を。オマエの伸ばしてくれたこの手を離してなるものか。 「うわ、熱っ。あー、取られてしまった」 「タイムワース様、トランプを始末しますか」 「タイムワース様、ドミノも始末しますか」  バンダースナッチとジャブジャブがビショップに駆け寄って訊ねた。奴の名はタイムワースというのだろうか。  ビショップは冷笑を浮かべて俺達を見ながら、ジャバウォックもどきの顔を愛おしそうに撫でる。 「いや、もういい。興が冷めた。トランプの方はもう持たないだろうし、ドミノも放っておいていい。羽虫相手に余計な時間を使いたくない。行こう」  俺のことを一瞥してから、黒のビショップは配下を引き連れて立ち去って行った。  俺は周囲を見回す。もう質量のある影を纏う者はいない。右目の痛みも引いている。 「伊織……。伊織、しっかりしてくれ……」  傷は数が多い上にかなり深く、押さえても押さえても出血が止まらなかった。  虫のドミノは戦闘力の代わりに生命力を持っている。角や翅が損傷しても、眠れば元に戻すことができる。しかし体の傷は例外だ。まして、毎度毎度翅を毟っているような体ではそもそもの耐久度が異なる。伊織の体は常にぼろぼろなのだ。日々の生活を送れている方がおかしいくらいだ。 「止まらない……。血が、全然止まらない……」 「やま、と……」 「馬鹿野郎。逃げろって言っただろ」 「ごめん、なさい……」 「ほら、ちゃんと手ぇ掴んだぞ。しっかり掴んでる。掴んでるからな、ほら。ほら、伊織」 「大和……」  徐々に生気が失われて行く虚ろな瞳が俺を見ていた。俺の手を握る伊織の手は冷たく、次第に力が入らなくなっている。止まらない血が何もかも奪って外に流してしまう。  ひとまず家に入って、応急処置をしよう。無謀な行動を叱るのはその後だ。  伊織のことを抱き上げて立ち上がろうとした俺は、自分の視界が大きく歪んでいることに気が付いた。意識が次第に薄れて行く。  待ってくれ。待つんだ大和。眠るな。寝ちゃ駄目だ。破れた翅の再生は家に入ってからでいい。今、ここで寝てしまったら……。 「い、おり……。ごめ……」  俺の瞼は、世界を遮断した。
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