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【第二百十二面 片割れ】 芋虫の話。
そこは無数の本が並ぶ部屋だった。
ベッドにちょこんと座って本を広げていた少年が、俺の姿を見て目を見開く。その表情は、驚愕とも安堵とも取ることができるものだった。
「え……。い、伊織さん……? 帰って来たんですね! よかった。よかったです、伊織さ……。え?」
嬉々とした様子で俺に駆け寄って来た少年は、一歩後退った。激しく震える大きな瞳が俺のことを見上げている。
「よう人間、読書は捗っているか?」
「あ……。え……? や、大和、さん……? なんで? どうして、大和さんが伊織さんの服を……。それに、翅だって……」
「やあ、有主君。服、似合ってるだろう? 翅はめちゃくちゃ痛かった。死ぬかと思った」
「大和さん、伊織さんは一緒じゃないんですか。合流できたから少ししたら送り返せそう、って手紙で言ってたじゃないですか」
ねえ、ねえ! と有主君は俺の袖を引っ張った。
姿見に映っている俺は、有主君の言う通り伊織が着ていた服を着ている。ジャケットのポケットには小型電話も入っている。そして、背中に背負っていた美しい翅はどこにもなかった。
「寺園伊織はこの世界に存在している人間だ。その存在を抹消することはできない」
「何、言って……」
「だから、俺が代わりにここに来た。俺がアイツを演じてみせる」
「どういうことですか大和さん。ちゃんと説明してください」
「君は決して悪くないから、自分を責めるようなことはしないでくれ」
何かを察したのか、有主君は俺から手を離した。よろめきながら、どんどん後退る。
「あ……。……ま、さか……」
「チェスとバンダースナッチに出くわした。俺はアイツを守れなかった。……伊織はここには帰って来ないよ」
「怪我しちゃってしばらく帰って来れないってことですよね? そうだって言ってください、大和さん」
「怪我しただけならよかったんだけどな。アイツは、もう……」
父の叫び声を聞いて俺が目を覚ましたのは、日が昇ってしばらくしてからだった。普段家の外になんて出て来ない父が、激しく動揺した様子で赤の散る雪の上にへたり込んでいた。父は俺達の名前を呼ぶ。返事をしたのは俺だけだった。
何度呼んでも、弟は返事をしなかった。俺も、父も、何度も呼んだ。何度も肩を叩いたり体を揺すったりした。それでも、赤く冷たくなった弟は何も反応を示さなかった。溢れて来た涙を拭いながら呼び掛け続ける俺のことを父が制止した時、俺は激しい喪失感と虚無感に襲われた。
本能に抗えない自分の体をこれほど嫌になったことはない。翅の損傷に負けずに手当てができていれば、何か変わっていたかもしれない。過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ないのだが、そう思わずにはいられなかった。
あれは俺の半分だ。俺の片割れは、砕けてしまった。
「どうか、自分を責めないでくれ。有主君は悪くない。全て俺の責任だ」
「そう言われても……。ぼく、今どうすればいいのか分からなくて。焦ってるのかもしれないし、驚いているのかもしれないし。とてもとても悲しいのに、悲しむことができなくて。感情がぐちゃぐちゃになってしまっていて。ぼく……。ぼくが、ぼくのせいで……」
俺は黙って有主君のことを抱き締めた。相手が男でも女でも、こうしてやれば少しは落ち着くものである。
「君のお陰で逢えたんだ。感謝してる」
有主君は俺の腕に軽く触れながら、小さく咽び泣いた。
神山家を後にした俺は、渡された地図を頼りに寺園人形店へ向かった。
有主君の部屋に残されていたコートと靴を纏って、慣れない街を歩く。商店街に並ぶ店はどれも目新しいものだった。見える範囲にはないようだが、こちらにも夜に賑わう地点があるはずだ。こちら側の歓楽街も気になるところだが、伊織の沽券のために控えるべきだろう。
「ここか……」
ショーウインドウにかぐや姫を模した人形が置かれている。ガラスに映る自分は、右目こそ隠れているもののかなり伊織にそっくりである。やはり服と髪型は大事だな。簪はワンダーランドに置いて来てしまったのでポニーテールにしているが、及第点だろう。
店に入ると、人形達の視線が俺のことを出迎えた。奥のカウンターにいた小柄な少女が顔を上げる。
「お兄ちゃん……? お兄ちゃんっ! お帰りなさい!」
レジスターをいじっていた手を止め、立ち上がった少女がこちらに駆けて来た。勢いよく俺に抱き付き、勢いよく俺から離れる。
「うわ、お兄ちゃんじゃない!」
「やっぱり気が付かれたか。伊織のこと、よく見てるんだな」
「だ、誰? なんでお兄ちゃんの格好してるの。顔も同じ……。あっ、もしかして」
「よう、つぐみちゃん。初めまして。河平大和だ」
つぐみちゃんは唖然とした様子で俺のことを見上げている。
「お兄ちゃんのお兄ちゃん……。え? なんで、大和さんが……? 下見に行って、ちょっと長引いて、もうすぐ帰って来るよって……神山先輩が、あなたから手紙が来たと。え、あの、お兄ちゃんは一緒じゃないんですか?」
「俺じゃあ伊織の代わりにはなれないかもしれないけど、頑張るからさ」
「え?」
大きな瞳が震える。
かわいらしい少女である。大事なのだ、大切なのだ、守ってやりたいのだと伊織が言っていたのがよく分かる。俺はこの子に何をしてあげられるのだろう。
「ごめんな、つぐみちゃん……。俺のいた場所は治安が悪くて荒れ放題だった。だから伊織のことを守ってやろうと思った。けど、俺の力不足だった。有主君のことは責めないでやってほしい。恨むなら、憎むなら、その対象は俺にしてくれ」
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんは、どこに……」
「伊織は帰って来ない。もう、帰って来ないんだ」
「えっ、それって……。なんで? どう、して……。だって、すぐ戻るよって言って出て行ったんです。すぐ、戻るよって……。戻って来るんですよね? お兄ちゃんは戻って来ますよね?」
自分の中でもまだ整理が終わっていないのに。自分でもまだ受け止めきれていないのに。それでも、俺は伝えなければならない。伝える責任がある。
有主君にも告げたのに、つぐみちゃんに対しては先程にも増して躊躇いが生まれていた。この子は家族なのだ。この子は、アイツの妹なのだ。
俺は深呼吸をして、つぐみちゃんを見据える。
「戻らないよ。アイツはもう、戻って来ない。俺が油断したから、俺が弱かったから、アイツは死んだんだ」
「しん……。じょ、冗談ですよね……?」
「こんな冗談言うと思うか。アイツは、アンタのことが気がかりだと、遺して逝くのが辛いと……愛していると、言っていた」
「あ……。あぁ……あぁっ……!」
嫌だ。どうして。なんで。そんな言葉を繰り返しながら、つぐみちゃんは俺のことをぽかぽかと叩いた。小さな手の弱い力だったが、傷だらけの俺の体には強い痛みを伴って響き渡っていた。腕も、足も、牙や爪の痕ばかりである。
「つぐみちゃん」
「嫌っ、その顔でわたしのことを呼ばないで!」
「……ごめん」
「どうして……どうしてなの、お兄ちゃん……」
泣き崩れる少女を前にして、俺は何もすることができなかった。抱いてやればいいのだろうか。しかし、拒絶されてしまうだろう。女の扱いには長けている自信があるが、俺のことを嫌がる幼い少女に対してはどうすればいいのか分からなかった。強引に従わせてしまっても構わないのだが、伊織の妹に手を出すわけにはいかない。
俺はただ黙ってつぐみちゃんの泣き声を聞いていた。そうすることしかできなかった。
俺は無力だ。
つぐみちゃんは泣き止まなかったが、泣きながら俺を伊織の部屋へ案内してくれた。今日の仕事が終わってから両親も交えてちゃんと話をしようと告げ、店番に戻って行く。
こざっぱりとした部屋である。人形や道具はアトリエにあるのだとつぐみちゃんが言っていた。部屋にあるのは必要最低限の家具と、良質そうな印象の鏡台、そして本がぎっしり詰まった本棚だ。これが伊織の部屋か。そして、俺がこれから過ごす部屋になるのだ。
寺園の両親は俺を一目見て、まず嬉しそうに挨拶をした。俺も挨拶を返し、伊織を家に置いてくれていたことについて感謝の意を伝えた。そして、彼の死を告げた。貴方達を愛したまま死んでいったと告げた。
何があったのか、事故に遭ったのか、誰かに殺されたのかと問い質された。俺は全てに閉口し、どうか警察沙汰にはしないでくれと頭を下げた。ワンダーランドのことを説明するわけにはいかない。伊織が隠し続けていたことを俺が家族に教えてしまってはいけないだろう。これからも、隠し続けなければ。
息子が死んでしまったというのに、事情を知る実の兄は何も答えない。そんなことが許されるはずもなく、養父も養母も俺を問い詰め続けた。俺はひたすら頭を下げた。頼むから詮索しないでくれ。警察に連絡しないでくれ。外部には生きているということにしてくれ。俺が代わりにここにいるから。お願いします。どうか、どうか、どうか。
頭を下げ続ける俺を止めたのはつぐみちゃんだった。彼女は伊織が蝶であることを知っている。言えない何かがあったのだと、悟ったのかもしれない。
「ねえ、もういいよ大和さん。もう、いいです。わたし、外にいる時はあなたのことを兄だと思います」
「おい、つぐみ」
「何言ってるのつぐみちゃん」
「すっごく悲しい。すっごく苦しい。すっごく辛い。でも、でも、ここで大和さんを追い出してもお兄ちゃんは帰って来ないんだよ。この人の言う通りにするしかないよ。きっと、何か事情があるんだよ……」
娘の言葉に両親は僅かに視線を彷徨わせたが、すぐに俺のことをしっかり見据えた。
「そう言われてもな」
「事情があるんだろうとは思うけれどね?」
俺はつぐみちゃんを退け、再び頭を下げた。何度も何度も頭を下げた。傷だらけの体が痛んだ。それでも、声が枯れるまで謝罪と懇願を繰り返した。何分、何時間、どれだけ経っただろう。少し考えさせてくれと言って、両親は席を外した。リビングを後にして、店の片付けに戻って行く。
残されたつぐみちゃんは、床に座ったままの俺に目の高さを合わせるように屈んだ。
「あの、大和さんも、なんですよね?」
俺の背中の方をちらちら見ながら彼女は言う。
「そうだよ。俺は人間じゃない」
「……えっと」
「ありがとな、アイツの翅のこと一緒に秘密にしてくれて。処置を手伝ってくれて」
「お兄ちゃんはとっても優しくて、格好よくて、わたしの自慢のお兄ちゃんです。人間じゃなくても、血が繋がってなくても、わたしの大事なお兄ちゃんです。……お兄ちゃんに、会いたい。会いたいよう……」
大粒の涙を零しながら、つぐみちゃんは声を上げて泣き出した。両親と俺が対峙している間は気を張っていたのだろう。伊織はこの家族に愛されていたのだと改めて実感した。アイツが引き取られた家がここで本当によかった。いい家族に出会えたんだな、伊織。
オマエの大切な家族のこと、俺が預かるから。
俺は泣き続けるつぐみちゃんを抱き寄せた。今度は拒絶されなかった。泣くことに全力で抵抗することができないのか、それとも、俺に少し心を開いてくれたのだろうか。できるだけ優しく抱き締めて、頭を撫でてやる。小さくて、温かかった。この子が、オマエの妹。俺がオマエの分まで守ってやる。だって俺は、オマエのお兄ちゃんだから。オマエの妹を俺が守るのは当然だ。
つぐみちゃんが泣き終わって落ち着くまで、俺は彼女を撫で続けた。俺は伊織にはなれないけれど、今は俺がここにいるから。偽物かもしれないけれど、頼ってほしい。
「ごめんな。ごめんな、つぐみちゃん」
俺は、この子のために何をしてあげられるんだろう。教えてくれ、伊織。
「今は昔、竹取の翁という者ありけり……」
仕方ないので今日は伊織の部屋に泊まっていいと言われた。
「野山にまじりて竹を取りつつ、よろずのことに使いけり……」
結論はまだ出せない。もっと話を聞かせてくれないかと言われた。
「名をば、さぬきの造となん言いける……」
数多の人形達が興味深そうに俺のことを見ていた。俺は製作途中の等身大の人形の肌を撫でる。つぐみちゃんが連れて来てくれたのは伊織のアトリエだった。宿題があるからと言って彼女が退室してから、じっくりと室内を見回す。
『竹取物語』を諳んじながら棚を眺めて歩いていると、ざわついていた人形達が静かになったようだった。人形達は何度も聞いているのだろう、アイツの暗唱を。主の不在に戸惑っていたようだが、少しは落ち着いてくれただろうか。なんて、人形のことは俺にはさっぱりだけれど。
籠って作業をすることもあるのか、隅の方に箪笥や棚や小さな冷蔵庫がある。箪笥の横に三面鏡が置いてあった。鏡と向き合って前髪を掻き上げると、緑色の瞳が俺を見つめた。
緑色の虹彩に水色の蝶が飛んでいる瞳。懐にしまい込んでいた灰色の義眼はバンダースナッチに襲われた際に大きく破損してしまった。職人に頼み込んで、伊織の持っていた人形の目を人に使えるよう調整と加工をしてもらったのだ。
あの夜、黒のビショップはジョーカーという言葉を口にしていた。アリス、ジョーカー、チェス、そしてジャバウォック。早く調べ回りたいのに、今の俺はここに留まらなければならない。こちら側にいてもできることを見付けよう。
俺はまだ慣れない新しい義眼に指先を滑らせる。作り手の心が伝わってくるような、そんな気がした。
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日々の記録
了
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