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【第二百十五面 走り続けなければならない】
カフェ・マジカルで、御伽話を模したスイーツを頬張る。
「有主君、クリーム付いてるよ」
「え。どこどこ?」
「口の端っこ」
璃紗が自分の口に軽く指を添えて位置を示す。同じ位置に手を伸ばすと、指先にとろりとしたものが触れた。
「あわぁ……。ありがとう」
「ははは、有主子供みたいだな」
「別にいいだろー、まだ子供なんだし」
店内にはおしゃれなインストゥルメンタルが流れていた。ドラマの主題歌だったアイドルグループの曲だそうだけれど、ぼくはあまり詳しくない。近くの席に座っている星夜高校の女子生徒が曲について何やら話している。
苺のソースが添えられた赤ずきんちゃんのパンケーキを切り分けていると、琉衣に「まただ」と言われた。
「また? またクリーム付いてる?」
「いや、溜息。ぼーっとしてるし、溜息つきまくるし、どうしたんだよおまえ」
「あはは、どうしちゃったんだろうねー」
「有主君、わたし達でよかったら相談に乗るけど……」
「ううん、大丈夫。大丈夫だよ」
苦笑いを顔面にくっ付けて、ぼくは返答する。心配させたくなくて笑顔を作るけれど、この苦笑いも更なる心配を生むのかもしれない。こう考えている間も、璃紗と琉衣はぼくのことを気にしている様子で手が止まっていた。
相談した方が、お互いの気は楽になるのだろうか。
琉衣はぼくに対して呆れたように息を吐いて、一寸法師の抹茶パフェにスプーンを突き立てた。抹茶のソースがソフトクリームと混ざって行く。璃紗は困惑を滲ませながら眠れる森のタルトをフォークで突いている。
「えっと……。えっとね……」
なんて言えばいいのかな。
「学校に行けてなかった間、お世話になった人達がいるんだ。三学期くらいから、会えてなくて……」
「その人達のことが気になってるんだね?」
「うん……」
ワンダーランドのことは伏せたけれど、ぼくの言った内容はおおよそ間違っていないはずだ。
「忙しくなるからしばらく会えないって言われて、そのまま音信不通だからさ」
「それ大人の人なのか? 仕事忙しいの?」
「そんな感じ」
璃紗と琉衣は驚いた様子で顔を見合わせる。二人の他には友達なんていないようなぼくが、不登校を極めていた時期に友人を作っていただなんて驚くに決まっている。しかも、相手は大人だ。
ぼくはパンケーキを口に運ぶ。甘くて美味しいお菓子を食べていると、ワンダーランドで毎日のようにお茶会をしていた時間が思い出される。狂い続けるお茶会の時間にぼくはすっかり憑りつかれてしまっていた。
「いい人達なんだね、きっと。有主君に優しくしてくれて、そして、有主君にそんなに心配されて。学校休んでた間、その人達といて楽しかったんだね。そっかそっか」
「語気が強い。どうした、焼きもちか」
「や……!? ち、違うよ! 毎日悲しみにくれながらお部屋に引き籠ってたらどうしようって思ってたから安心したの」
「なんだ違うのか。もっと積極的に行った方がいいと思うぜ」
「何の話かな!?」
ちょっぴり赤くなりながら、璃紗はおさげの先っちょをいじる。眼鏡の奥の目が戸惑うようにぼくのことを見ていた。なんだか自分の顔も少し熱くなっているような気がした。
「待て、オレを置いて二人の世界に入らないでくれ」
「えっ、いや、ぼく別にそんな……」
「相手が大人なんだったら、仕事が落ち着くまで待つしかないんじゃないか? 迷惑かけたらよくないと思う」
「んぅ、そうだよね……」
「……ほう。随分と御執心だな、オレも焼いちゃうぞ」
「わたし焼いてないからね?」
二人といると元気が出る。ついつい甘えちゃうな。噴き出すように笑い合って、その後はもう溜息は出なかった。
次にワンダーランドに行った時、笑ってみんなと再会できるように。こっちでの時間も楽しいものなんだって、胸を張って言えるように。しょんぼりしながらワンダーランドへ行ったら、こちら側で苦しんでいるのではないかって心配されてしまうだろう。きっと、さっきの璃紗のように。
ページを捲る時も、本を閉じている時も、どっちもぼくの時間だ。
時計の針は回り続ける。ページを捲る手のように止めることはできないから、走り続けないと。ぼくの居場所に留まり続けるには、走り続けなければならない。全力で、走るのだ。
琉衣の奢りで甘味を堪能したぼく達は、三人並んで帰路に着く。
「よかったよかった、有主元気そうだな」
「美味しかった」
「でもおまえのせいで美千留の話をする時間がなかっ……」
琉衣のエナメルバッグからかわいらしい音が聞こえた。携帯電話の着信音だ。
「はぁーい、もしもーし。お兄ちゃんだよぉー! うん。……分かった。買って帰る」
真剣な顔をしながら携帯をバッグにしまい、琉衣は呼吸を整える。美千留ちゃんが絡んでくるとそこそこいい顔がとてもいい顔になるよね。
「美千留に買い物を頼まれたからスーパーに寄ってく。それじゃあ!」
「走るなよー」
「走らない方がいいよー」
己の身を投げ打ってでも妹のために動くのが宮内琉衣という男である。丁寧に深呼吸してしっかり準備をしてから体を削りに行った。運動神経は抜群なので足は速いのだ。もう後ろ姿があんなに小さい。
スーパーの方へ走り去る琉衣を見送って、ぼくと璃紗は歩き出した。今読んでいる本やこれから読もうとしている本の話をしながら、家へ向かう。
その時、視界に白が広がった。ぼく達の目の前を、真っ白な影が横切ったのだ。白い髪、白い帽子、白いコートに、白いスカート、白い靴。血のように真っ赤な瞳だけがぎらぎらと光っている。
「あら、アリスと……。貴女はドロシーね」
立ち塞がるようにして、白ずくめの女は言った。長い睫毛に縁取られた赤が妖艶に揺れる。白ずくめの女とは、専らおじいさんの骨董品店で顔を合わせていた。最初に追い駆けたあの日以来、彼女が外を一人で歩いているところに出くわしたことはない。外で会うとなんだか新鮮である。
「学校の帰り? それじゃあ、そろそろ栞も帰って来る頃ね。あぁ、帰って来る時間は少し遅くなったのだったかしら……」
「お姉さんはお買い物か何かですか」
「私は」
白ずくめの女は、自分の歩いて来た方向を振り返った。骨董品店のある通りとは反対である。どこかへ向かう途中ではなく、帰る途中なのだと思われる。
釣られて、ぼくもそちらを見た。誰かが走って来るのが見える。
おそらく、大人の男の人。背は高い方かな。髪も長い。
「待って! 待ってくれ、そこのお嬢さん!」
駆けて来た男は、立ち去ろうとしている白ずくめの女の手を取った。逃げ出そうとしたのを引き留めたようにも見える。
「血相変えて走り出すから驚いたぜ。逃げることたぁねえだろ」
「や……伊織さん、このお姉さんと何かあったんですか」
「うわ神山君じゃん……」
現れたのは大和さんである。春物のコートを羽織り、髪をポニーテールにしている。「この人こんな感じだったっけ?」と璃紗に小声で言われ、ぼくは「こんな感じじゃない?」と返した。絶対こんな感じではない。服装は伊織さんのものだけれど、言動の端々から伊織さんではない何かが滲み出ている。
大和さんは璃紗のことをちらりと見てから、えへんと咳払いをした。表情から鋭さが消え、穏やかなものに変わる。
「やあ、こんにちは」
「こんな感じだったかもしれない」
「離して、かぐや。私はお遣いを済ませたので帰らなくてはならないの。離してちょうだい」
「僕は君と話をしたいだけだ」
「話があるのなら納品に来た時で構わないでしょう。それとも、何か急ぎの用なのかしら」
大和さんの手を振り払い、白ずくめの女は彼と対峙する。
「今日の貴方、何か変よ。先月納品に来た時とは別人みたい」
「そっ……そんなことないよ。僕はいつも通りだよ」
「……なぁに? 何の用なの、かぐや」
走って来たからか、ポニーテールから触角めいた部分が飛び出している。風に揺れている触覚のようなものを見ていると、今はないはずの翅が背中に見えるようだった。大和さんは前髪で隠れている右目に軽く指先で触れる。
そして、彼はやや躊躇う素振りを見せてから口を開いた。
「君は……」
名前を呼ぶ。
「君は、レイシーだよね?」
血のように真っ赤な瞳が、大きく見開かれた。
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