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第二百十六面 突飛な考え
驚いた様子で白ずくめの女は一歩後退った。いつも涼やかな笑みを湛えている顔には、焦りや怯えに似たものが滲んでいた。血のように真っ赤な瞳が大和さんのことを不安そうに見上げている。
「レイ、シー……? それは、私のことなの、かぐや」
「違うのかい?」
大和さんの問いかけに、白ずくめの女は小さく頷く。
「私……は、私。私は私……。レイシーという名前は知らないわ……。私は、私だもの……」
ごめんなさい、と言って彼女は踵を返し、逃げるようにしてその場を立ち去る。真っ白な残像が骨董品店の方角へ消えて行った。
覚えているのはアリスという名前だけ。ぼくのことを妙に意識している様子の白ずくめの女には、他には何もない。自分が何者なのかを彼女は知らないのだ。
「伊織さん」
「彼女は君の知り合いなのかな」
「知り合いというか……」
ぼくが口籠もっていると、大和さんは璃紗のことをちらりと見た。
「あ……。あぁー。……神山君、何かあったら気軽にお店に来てね」
「あ、はい……」
それじゃあ、と手を振って彼はぼく達の横を過ぎて行く。
ポニーテールが遠くに行くのを見送っていると、璃紗に肩を突かれた。眼鏡の奥の目が怪訝そうにぼくを見ている。
「わたしに聞かれたら困る感じ?」
「え、いや……えーと……」
大和さんと会話をしていると、うっかりワンダーランドのことを喋ってしまうかもしれない。もしもそれを璃紗に聞かれたら、何と言って誤魔化せばいいのだろう。自分にはうまく誤魔化せる自信がなかった。
「ご、ごめん……」
「謝る必要なんてないよ。有主君だって秘密の一つや二つあるだろうし、わたしはきみの全部を管理しようだなんて思ってないし」
「あはは、束縛するタイプの彼女って怖いよね」
「ドラマとかにたまに出てくるやつね」
あはは、あはは、と笑い合っていたぼく達はあることに気が付いて口を閉じた。思わず顔を見合わせて、すぐに目を逸らす。
秘密もあるだろうさ、と言った璃紗に対してぼくは何と言って答えた? そういう彼女は怖いよね、とぼくは答えた。そういう彼女はこわいよね、と。彼女、と。
ぼふん、と音を立てるようにして璃紗の顔が赤くなった。おそらく、ぼくの顔も似たような状態になっているはずだ。この場に琉衣がいなくてよかった。美千留ちゃんからの電話がなければ、あいつはきっと今ここでぼく達のことをにやにやしながら指差して笑っているに決まっている。
「いやっ、違っ……! 彼女っていうのは、その、言葉の綾というか、なんというか……」
「お、おう……。分かっておるよ……」
「り、璃紗がそういう彼女になっちゃったら困るなあっていう……。あれ? あれあれ? 違う、待って」
「落ち着きなさいな」
「あのですね……。あの、まだそういうのじゃない……。ぼく達はまだそういうのじゃ……」
「分かっておるよ、有主君」
上手く言葉が出て来なかった。璃紗も言葉遣いがなんだかおかしい。
どうにかこうにかお互いに説明をしようとするけれど、全然上手くいかない。無性に恥ずかしい。逆に琉衣がいてくれた方がよかった。何言ってんだよおまえら、って言って笑ってほしかった。
二人揃ってまごまごしていると、低学年くらいの小学生数人がすぐ傍を駆けて行った。どこかへ遊びに行くのか、それとも遊んだ帰りか。
「えっと……。帰ろうか。ね、有主君」
「あ……。うん……」
妙に照れくさくて、その後は何も会話ができなかった。
○
「あのおさげの子は彼女か?」
「幼馴染です」
アトリエの棚に並ぶ人形達を眺めながら、大和さんはにやにや笑った。口の端から白い棒がちらりと見えている。
「ん? なんだ気になるのか。飴だよ飴」
ブドウ味だぜ、と付け加える。
「伊織は煙草吸わねえから我慢してたんだけど……。口寂しくて口寂しくて、精神的に参ってたらつぐみちゃんがくれたんだよ。『これどうぞ』って」
「禁煙できてよかったですね」
「かわいらしい笑顔で恐ろしいことを言うんじゃありません」
大和さんは棚から離れると、作業机の前の椅子にすとんと腰を下ろした。指先で飴の棒を軽く弄ぶ。
「白ずくめのおねーさん、あの子は伊織の知り合いなのか? かぐや、ってかぐや姫のことか……?」
「おそらく、かぐや姫のことだと思います。あの人は骨董品店にいるお姉さんで、伊織さんはお人形を納品する時などに顔を合わせていたはずです」
「ふうん」
「どこからやって来たのか、何者なのかは彼女自身にも分からないそうです。……お姉さんの名前、大和さんは知っているんですか」
レイシー。大和さんは白ずくめの女のことをそう呼んだ。
綴りは、おそらくLacie。Aliceのアナグラムだ。『不思議の国のアリス』の作中で眠り鼠が語ったお話の中に登場する名前である。白ずくめの女のことを大和さんが知っているのならば、彼女はワンダーランドの住人なのだろうか。以前ぼくが想像したように、帽子の中に真っ白なウサギの耳が収まっているのかもしれない。
「知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない。名前と存在は知っているけれど、彼女の実態は俺の情報網でも掴み切れていない」
飴を噛み砕く音が小さく聞こえた。
「レイシーっていう女がいた。そいつがどういうやつかはよく分かっていない。ただ、分かっていることは……。レイシーが、二年前の春から行方不明になっているということだ」
「二年前の、春……」
「こっち側の世界にいるなんて突飛な考えだけどよ、似ていたから、もしやと思って声を掛けたんだ。でも、違うって言っていたな……。まあ、こっちにいるわけないよな……」
二年前の春。一年生の、春。丁度ぼくが彼女を追い駆けた頃だ。
「もしもあの人が大和さんの言うレイシーなら、忘れてしまっているってことは考えられませんか」
「忘れる? 自分のことを? そんなことねえだ……あ。いや、待てよ。まさか、君、そんな……つまり……?」
「こっちに来る時に何かあったのだとしたら、伊織さんのように……」
「でも、確かめる方法はない。本人が否定しているうえに、俺には彼女を彼女であると証明することができない」
大和さんは飴の棒をゴミ箱に放り投げる。しかし、棒はゴミ箱の手前で床に落ちてしまった。
白ずくめの女はぼくに固執している。綺麗だけれどちょっぴり怖い人だ。よく分からない人に大事にされても気味が悪いだけである。大和さんが彼女の正体を知っているのなら謎ばかりの彼女の姿がよく見えるようになるかと思ったけれど、なかなか上手くは行かないね。
大和さんの知っているレイシーと、ぼくの知っている白ずくめの女に外見以外に共通点があれば、少しは近付くことができるだろうか。何かないかな……。
骨董品の間を縫うように歩く彼女の姿が頭に浮かぶ。はたきを手にして店内をうろうろする白ずくめの女は、ふいに歌を歌い始めた。
「そういえば、あの人はたまに歌を歌っていました」
「歌?」
「はい。あの、伊織さんが姿見に吸い込まれた時に口遊んだ歌は彼女が歌っていたものなんです。くるくるりん、みたいな……」
青い左目が大きく見開かれた。飴の棒を捨て直した手が、前髪の奥の右目に伸ばされる。
「回れ回れ、歪な歯車……。迷え、迷え……時の中で。……踊れ踊れ、繋がれた、まま。歌え……歌え、古の詩……。くるくる、くる、り……きら、きらら……」
「あぁっ、そう! その歌です! あれっ、どうして。どうして、知ってるんですか……」
大和さんの左目は、驚いているような、怯えているような色を浮かべていた。
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