第二百十七面 君も欲しいだろ?

1/1
49人が本棚に入れています
本棚に追加
/247ページ

第二百十七面 君も欲しいだろ?

 白ずくめの女が口ずさんでいる歌。不思議な歌。  大和さんは顔から手を離すと、小さく息を吐いた。 「俺が彼女の姿を初めて見た時も、その歌を歌っていた」 「どこで見たんですか?」 「……北西の森。小さいけれど綺麗な花畑があるんだ。何度か母に連れられて伊織と一緒に行った」 「え? それって二十年以上……」 「ある時、花の中で歌っている真っ白な女を見た。俺は近くの草を貪り食ってて歌なんてそこまで気にしてなかったけど、伊織は『素敵な歌だね』って言っていたっけな」  お母さんと伊織さんと一緒にいた頃というと、二十年以上前のことだ。白ずくめの女の外見は二十代くらいで、彼女はレイシーと姿が似ているもしくは同一人物である。となると、幼い大和さんは幼いレイシーと出会ったのだろうか。  小さい頃から歌を? と訊ねる。すると、大和さんは「それは分からん」と答えた。見たことがあると言ったのと同じ口で分からないと言われるとは思わなかった。 「あの時のレイシーは、今と同じ姿をしていた」 「え……? それって、母親とかなんじゃ?」 「いや、レイシーだと名乗っていた。『かわいらしい子。双子ちゃんかしら』『私はレイシーというのよ』って。顔を合わせる時、姿を見かける時、いつだって彼女はあの姿のままだった。真っ白な髪、真っ赤な目、白い服に、大きな帽子。そして、いつも歌を歌っていた」  二十年以上、姿が変わっていない? 「おぉ。驚いた、って顔してるな。そうだよな、俺もびっくりしたさ。俺がでかくなっても、向こうはおばさんにならずにお姉さんのままなんだからさ」 「不老不死……ってことなんですかね?」  荒唐無稽で複雑怪奇な不思議の国と雖も、不老不死の存在がいるなどという話は聞いたことがなかった。イグナートさんが火の鳥の気配をちらつかせているけれど、あれはあくまでプラーミスクの話である。ありとあらゆる情報を集める蝶でも実態が掴めていない謎の人物ならば、例え彼女が注目すべき特異な存在であったとしても一般には認知されていない可能性はある。  大和さんは再び右目に手を伸ばす。指先が義眼に触れる音が微かに聞こえた。 「ジャバウォック、もどき……が現れると右目が疼くという話はしていたっけ」 「詳しい話は聞いてませんけど、なんとなくそうなんだろうなぁとは思ってました。ものすごく痛そうだったので」 「……まあ、詳細を話すつもりはねえんだけどさ。……最初は何ともなかった。あの歌を聞いて、ただ『歌だな』と思った。けれど、この右目を失ってから……。それ以降……。あの歌を聞いた時にも、疼くんだ……。歌が原因なのか、レイシーに何かしらの変化があってそれが原因なのかは分からねえけど、気味悪いよな……」  へらへらとした笑いがすっかり消えていた。ぼくが歌について振った際の大和さんの表情はかなり動揺しているものだったし、今の様子からも「気味が悪い」という彼の感情がひしひしと伝わって来る。  本人に語るつもりがないのならば、ぼくは右目の痛みについて問い質すようなことはしない。しかし、中途半端にひらひらとページを揺らされていると続きがとても気になった。美しい翅を広げるように、蝶は断片的な情報をこちらに見せている。 「歌を歌った伊織が姿見に引き摺り込まれたのならば、歌に何かあると考えるのが妥当だろうか……」 「あの白ずくめの女の人……。あの人、やっぱりレイシーなんですかね」 「分かんねえ。分かんねえけどよ、ワンダーランドの住人が歌っていた歌を似た姿の女が歌ってるんだから、同一人物の可能性は大いにある。自分のことが分からないっていうのも、こちらに来る際に事故があったのだとしたら説明が着く」  情報屋の血が疼くな、と言って大和さんはにししっと笑った。気味が悪いと思っている対象らしきものが相手であっても、探ってみたいという気持ちは沸き上がって来て止まらないのだろう。情報を掻き集める者の性(さが)、なのかもしれない。 「伊織が顔見知りなら、そこまで警戒はされねえだろ。少し探りを入れてみようかな」 「大丈夫、ですか……? あまり接触すると伊織さんじゃないって気が付かれません……?」 「危ないと思ったら引き返すさ。俺が今までどれだけの修羅場を潜り抜けて来たと思ってるんだ。己の身を守りつつ、できる限りの情報を手に入れてやるよ」  ぐっ、と親指を立てて見せる様はとても心強い。ぼくがあれやこれやと悩んでも答えは出ないけれど、大和さんに任せてしまえば白ずくめの女の正体が分かるかもしれない。真っ白な靄の中に紛れてしまっている真っ白な姿が、ぼんやりとした輪郭を持ったように感じられた。  しかし、希望と同時に不安を覚えた。この男、ヤマト・カワヒラは情報屋である。彼の入手した情報に触れるためには、対価が必要となるだろう。以前はこちら側で暮らす伊織さんのことを伝えることでやり取りをしていたけれど、今のぼくには代わりに渡せる情報などない。では、何を払えばいいのか。  前髪の隙間から右目が見えた。嵌めこまれた眼球は灰色ではなく、緑色だ。あの日、ぼくが落としてしまった人形の目。あの日、ぼくが伊織さんに渡した人形の目。森の中を飛び回るように、緑色の地に水色の蝶が描かれている。形見……。形見、なのかな……。  常に真正面を見据えている義眼がこちらを向いた。すなわち、大和さんが真正面からぼくを見た。 「有主君」 「はっ、はい……!」 「俺はレイシーと思しき白い女について調べようと思う。俺が集めた情報、君も欲しいだろ?」 「ほ……ほしい、です」 「それじゃあ」  右目が隠れ、左目だけがぼくを見る。 「君は何を支払ってくれるんだい?」  情報を渡すことはできない。そして、ぼくのお小遣いでは彼が満足するレベルの報酬を出すこともできない。  距離を詰めて来る大和さんから退こうとして、ぼくは人形に蹴飛ばされた。棚にぶつかったのだということに気が付いたのは、「ひんっ」と声を上げて人形の前から飛び退いた後だった。 「おいおい、そんなにびびることねえだろ。取って食おうなんて思ってねえよ。そんなにお兄さんが危ない人に見える?」 「代わりの情報もないし、お金もないし、何を支払えばいいのか……」 「本を貸してくれないか」 「ほ?」  ぼくが聞き取れなかったと思ったのか、それとも念を押そうとしたのか、「本を貸してくれないか」と大和さんはもう一度言った。本。 「それなら君にもできるだろ」 「本……。伊織さんの部屋に本はないんですか?」 「ある。あるけど、どれが読みやすいやつなのか分からなくてさ。イーハトヴ文字を理解することはできるけれど、難しい言い回しや凝った表現があると詰まっちまって駄目だ」 「『竹取物語』は読めるんですよね?」 「あれは読めるというか内容を覚えているだけだよ。ワンダーランドと酷似した世界が舞台だっていうから『不思議の国のアリス』をこの間中読んでたけど、途中で挫折した。芋虫が俺に似てイケメンなことしか分からなかった」  多少読み書きすることができても、その言語で書かれた文章を全て読めるというわけではない。ぼくも授業で習う程度のレベルなら英語が分かるけれど、原文の外国文学などを読むのは難しい。以前英和辞典を傍らに置いて戦いを挑んだ際には見事に敗北している。  英語の本なら分かるのではないかと提案すると、大和さんは首を横に振った。長い髪がうねうねと動く。 「確かに英語はだいたいワンダー文字だから読めるし分かるけどよ、ここで暮らし続けるには日本語に慣れないとだろ」 「暮らし続ける……」 「今の俺は……。いや、僕は世間的には寺園伊織だからね」  柔らかく微笑む様子は伊織さんとよく似ていた。大和さんはずっとこのまま、伊織さんのふりをしてここで生きて行くつもりなのだろうか。本当に、伊織さんは……もう……。 「そういうわけで神山君、読みやすそうなお話をいくつか見繕ってもらえるかな。そのお礼として僕が入手した情報を君に提供しよう」 「わ、分かりました。ちょっと本棚を漁ってみます」  よろしくね、と言いながら垂れて来た髪を掻き上げる。彼の左目は、ほんの少し寂しそうな色を宿していた。
/247ページ

最初のコメントを投稿しよう!