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第二百十八面 憧れの対象
「先輩。神山先輩」
大和さんからの情報の対価に妥当な本は何だろう。己の手腕を試されているようで、ちょっぴりわくわくしてきた。
「先輩ってば」
ご満足いただける本を選んでみせますとも!
「神山先輩!」
「ひえっ!?」
大きな声で呼ばれて、思わず悲鳴を上げてしまった。ここは図書室だ。静かに過ごさなければならない場所だというのに、図書局員が騒いでいては「図書室では静かにしましょう」の説得力がない。読書に勤しんでいたり本を探していたりした生徒達からの冷たい視線を受けながら、ぼくは呼び掛けて来た後輩を見上げる。
「えっと……」
「先輩、大丈夫ですか? パソコン、ひたすらエンター押し続けてますけど」
「えっ、わ!」
本を数冊抱えた後輩はカウンター越しにぼくの手元を覗き込み、「あと、にやにやしてました」と付け加えた。
今年度から新しく図書局に入った一年生の宿谷君。亀倉さんに頼まれて、ぼくが指導することになっている。先輩としていいところを見せたいけれど既に先行きが不安だ。長身で大人びた印象のある彼と一緒にいると、ぼくの方が後輩のように見えてきてしまう。喋れば無邪気な一年生だから気にし過ぎなのかもしれないけれど。でも、仕事中に他のこと考えて注意されるようじゃ駄目だぞ、ぼく。ちなみに彼の好きな物語は『舌切り雀』らしい。
用件を訊ねると、宿谷君は抱えていた本から一冊を手に取って見せてくれた。背表紙に貼られているシールが剥がれている。
図書室に居座っている図書局員も、司書さんも、全ての本がどの棚に入っているかなど把握していない。覚えろと言う方が無理だ。裏表紙のバーコードを読み取ればパソコンに情報が表示されるけれど、一冊一冊コードを読み取るわけにもいかない。そのため、背表紙に番号やアルファベットが書かれたシールが貼られている。一般的に図書館で見るもので、小学校の図書室にもあった。これがあれば覚える内容を減らすことができる。
「これ、どこの棚に戻せばいいのか分からなくて。何冊かシールが剥がれているものがあったので持ってきました」
「ありがとう。後で司書さんに確認するから、そっちに置いて……。え、そんなに?」
「はい、こんなに」
宿谷君が抱えている本は思っていたよりも多い。
「年度末にみんなで蔵書の点検をした時にはそんなになかったはず。その時に剥がれていたやつは直したし」
「じゃあ、四月になってからってことですか? 二、三週間でこんなに?」
「その本を読みまくってる人がいるのか、それとも」
「いたずら?」
いたずら……?
この図書館でいたずらなど許される行為ではない。読書のため、勉強のためにここを訪れる生徒が安心して過ごせる場所でなくてはならない。鬼丸先輩が守ろうとした聖域をぼく達も守り続けなければ。きっといるんだ、ここを求めて、ここにやって来る聖域を探す生徒は、他にも。
パソコンへの入力を一旦中断して、ぼくは宿谷君の持っていた本を一冊手に取る。もう一冊、見せてもらう。そしてまた、一冊……。背表紙のシールが剥がれている本はジャンルがばらばらで接点などなさそうに見えた。これらの本がまとめて大人気になっているとは考えにくい。では、原因はなんだろうか。
「意図的にやられたものだとは考えにくい。というか考えたくない」
「でも先輩」
「だって、意図的にこんなことして誰が得をするの。困るのは図書局員と利用者だ。それと、司書さんも。じゃあ、得をするのは誰?」
「ちょっと分からない、です」
「でしょ?」
数秒、宿谷君が黙る。何かを考えているのか視線を彷徨わせた後、本を見てぼくを見た。
「意図的なものだとしたら、目的は図書室への嫌がらせ……」
「考えたくない。とても考えたくない」
「あの、先輩」
宿谷君は声を潜めて言った。「前の図書局長、嫌がらせされてたって聞いたんですけど」と。誰から聞いたのかなんて訊ねるつもりはない。学校の中の噂なんて色んなところから流れ出て広まって行くから。
鬼丸先輩の件を知っているのなら、その辺りを気にする気持ちはわかる。けれど、先輩に手を出していたのは同じ三年生だった。彼らはもう卒業している。今回の件と先輩のことは関係ない。
じゃあ別の誰か、今の図書局員の誰かが被害を被っているのでは? その考えに至ったぼくは、自分で自分を恨んだ。瞬時に連想されたのは自分のことだった。やめろ、嫌なことは思い出さなくていい。でも、他に何かされそうな局員なんて思い付かなかった。しかし、ぼくをからかっていたグループはすっかりおとなしくなっている。表に出していないだけかもしれないけれど、目立つようなことはもう仕掛けてこないだろう。
「……もし悪い人がいるんだったら、大きな葛籠をプレゼントしないとですね」
「えっ、怖い……。とりあえずこのことは司書さんと……亀倉さんにも言っておくよ。村岡先生にも言っておいた方がいいかな。教えてくれてありがとね、宿谷君」
「あ、ありがとね……!? 神山先輩にっ、感謝の意を伝えられるだなんて! こちらこそありがとうございます! 光栄です!」
喜びに満ちた大きな声に、図書室中から冷ややかな視線が集まる。
「図書室では静かにね」
「すみません!」
「あの、宿谷君……。そんなに大袈裟に感激しなくても」
「いやいや、いや……。かっ、神山先輩、仕事が終わってから、ちょっといいですか」
「いいけど……」
宿谷君は笑顔を浮かべ、弾む足取りで本棚の整理に戻って行った。顔合わせの時から妙に視線を感じていたのだけれど、何なんだあの子……。
片付けを終えて司書室にリュックを取りに行くと、宿谷君が待ち受けていた。ラミネーターの傍らにいた彼は、ぼくに気が付いてぱっと顔を上げる。
「神山先輩!」
「うん」
「オレ、先輩が憧れなんですよ!」
「……は?」
憧れているだなんて滅多に言われたことがない。というか、言われたことなどあっただろうか。驚き過ぎて言葉が出てこない。そんなにキラキラした目を向けないで。ぼくなんかは本棚に囲まれた暗闇にいるような人間なので、そんな光には慣れていないのです。キラキラした目は向けられるものじゃなくて、向けるものだから。本を開いて、ページを捲って、世界に飛び込んで。
ぼくに憧れるような要素なんてあるだろうか。新一年生からすれば不登校を極めていた時期なんて分からないし、普通の三年生に見えているのかもしれない。それでもやっぱり、今でも人付き合いは苦手だし、後輩の前で格好悪いところを見せてしまうこともあるし、おどおどしたりおろおろしたりする。
「宿谷君、嬉しいけど……ぼくはそんな憧れの対象になるような人間じゃないよ」
「ご謙遜を! だってオレ、先輩が目当てで図書局に入ったんですから」
「えっ……。何……?」
「これ、これですよ」
宿谷君はリュックからスマホを取り出して、数回画面を叩いてから見せてくれた。写真だ。図書室前の廊下の写真で、ぼくが書いた本の推薦文の貼り紙が写っている。
「去年の学校祭でこの文章に心打たれたんです。この文を書いた人はよっぽど本が好きなんだなって分かりました。入学したら図書局に入ろう、この神山有主という人に会いたい、そう思ったんです」
「え、えっと……ありがとう。頑張って書いたから、ちゃんと読んで褒めてもらえると嬉しい」
「勿体ないお言葉! あぁ、オレ、今本当に神山先輩とお話しているんですね……。亀倉先輩に『宿谷君のことは神山君に頼んだから』って言われた時、オレ感激して亀倉先輩にめっちゃ感謝してちょっと引かれちゃったんです」
「まぁ、引くだろうね……」
「小学生の時、あまり周りに本好きの子がいなくて。図書委員だったんですけど、他の子はそこまで……って感じだったんですよね。いやぁ、オレ、本当にここに来られてよかったです」
「……宿谷君」
はい! と元気のいい返事。黙っていると背が高くて落ち着いた雰囲気だけれど、喋ると無邪気で元気で、例えるならば大きな犬みたいだ。
「本の話がしたいんだったらいつでも相手になるよ」
「わ……」
かなり良質な本の虫だ。
大和さんにおすすめする本を宿谷君に相談してみてもいいかもしれない。璃紗か、亀倉さんか、骨董品店まで行って鬼丸先輩に訊いてみようかと思っていたけれど、彼も候補に入れておこう。
「『舌切り雀』が好きなんだったら、亀倉さんも日本昔話が好きだから話が合うかも……。……宿谷く……。しゅっ、宿谷君!?」
感動のあまり、後輩は手を組んで拝むようにしてぼくを見ていた。目を閉じ、しみじみと喜びの感情を堪能している。恥ずかしいやら照れくさいやらで、ぼくは大変混乱した。そんなんじゃないよ、いえいえ立派です、やめてよう、まだ足りません……そんなやりとりがしばらく続いた。
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