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第二百十九面 そんなにいいものでもないですよ?
図書室で発生した蔵書への被害。解決の糸口が見えぬまま、報告して数日が経過した。
「あたしは自分の無力さに怒っている」
「亀倉さんが悪いわけじゃないからさ、そんなに自分を責めないで」
「いいや。これは図書局長であるあたしの責任だよ。先輩達から引き継いだ図書室を守らなくてはいけないのに、あんなことをする不届き者に気が付かず野放しにしていただなんて」
朝の教室で「おはよう」とぼくが声をかけた直後に、亀倉さんは眉間に皺を寄せて言った。責任感があるのはいいことだけれど、あまり自分を追い込まないでね。本当にきみのせいではないのだから。
「ほら、水泳部だってあるし忙しいのはみんな分かってるよ。誰も亀倉さんのこと責めてないよ」
「でも新年度早々これじゃあ、あたしは……。役立たずだって思われたらどうしよう……」
「大丈夫だよ」
「神山君は優しいなぁ」
ぼくはリュックを置いて席に着く。「今日は対策会議をするから放課後来てね」と後ろから声をかけられた。当番ではないから早く帰ろうと思っていたけれど、図書室の安寧を守るためなので仕方ない。
うーん、どうしたものかな……。どうすればぼくたちの、みんなの図書室を守れるんだろう。今日から読み始めようと思っているオスカー・ワイルドの本を開きながらうんうん考えていると、窓辺の席からどよめきが起こった。
「馬だ!」
「馬!?」
「えっ、馬じゃん!」
馬……?
教室にいた生徒という生徒ほとんどが窓辺に駆け寄った。本を開いていた璃紗も、机に突っ伏して休憩していた琉衣も例外なく。もちろん、ぼくと亀倉さんも。
そして、好奇心に駆られた中学生達の目に飛び込んできたのは馬だった。間違いなく馬だったのである。校門のところに真っ黒な馬が立っていて、その背に星夜中学校の制服を着た人物が跨っている。あともう少しでチャイムが鳴るというところで馬は門の横にいた先生の前を過ぎて玄関に向かって歩き出した。乗っていた生徒はぎりぎりで遅刻を回避できた感じだろうか。あの生徒はおそらく……。
非日常的な光景にどよめきの収まらない教室に一人の生徒が駆け込んできた。やって来たのは我らが生徒会長である馬屋原君だ。息を切らして、汗を垂らしている。
「おはよう馬屋原君」
「お、おはようございます神山君。あぁ、よかった……。間に合った……」
「珍しいね、馬屋原君が遅刻しそうになるの」
「ちょっと夜更かししてたので……」
馬屋原君はちょっぴり言いたくなさそうに言った。へぇ、生真面目そうな彼も夜更かしをすることがあるんだな。もしかしたら勉強していたのかも。
「おう、馬屋原! さっきの何!?」
「馬屋原君、馬に乗れるの!」
「ってか何で馬で登校?」
席に着くなり囲まれてしまった馬屋原君は、困っているような、恥ずかしがっているような、そんな顔になった。
「寝坊してしまって、歩いていては遅刻すると思ったので愛馬で来ました。車で送ってやると運転手さんは言っていたけれど、車は目立ってしまうから……。あぁっ、馬は大丈夫ですよ! 軽車両での登校は校則で禁止されていないので! 自転車で来る人ほとんどいませんけど! あと、馬はちゃんと後で家の者が迎えに来ますから! 生徒会長たる者、校則はきちんと守っています!」
馬の方が車より目立つのでは?
馬屋原君の家は大きいらしい、という噂を聞いたことがある。目立つような車を運転手さんが運転してくれるということは、噂通り大きな家に住んでいるのかもしれない。西洋の物語の中に出て来るような豪邸か、それとも日本の昔話の中に出て来るような立派な日本家屋だろうか。まるで絵本のようなお家が建っているのだとしたら、見てみたいな。
みんなはまだ話を聞きたかったようだったけれど、村岡先生が教室に入って来たので解散となった。散って行くみんなを軽く目で追ってから、馬屋原君はぼくと亀倉さんをちらりと見る。
「次の休み時間、話があります」
何だろう? 軽く詳細を訊ねたかったけれど、先生の「みんなおはよう」に遮られてしまった。
一時間目の授業が終わった休み時間。馬屋原君が発言するより先に亀倉さんが口を開いた。
「あたしと神山君に用があるってことは図書室のこと?」
「はい。先日報告の上がっていた蔵書のラベル剥がれなんですけど、こちらの方で対処しておきました。もう大丈夫ですよ」
「生徒会がどうにかしてくれたってこと……?」
亀倉さんが訊ねると、馬屋原君は彼女から視線を逸らした。
「いえ、生徒会としてというより……おれが個人的に、心当たりがあったのでどうにかしました」
「図書局長としてお礼を言っておきます。……って、個人的に? どういうこと?」
「まあ、ちょっと色々」
生徒会長、馬屋原颯真君。璃紗と同じく定期テスト上位常連グループの一人であり、一年生の時から生徒会で活躍中。真面目で人付き合いはあまりしないのかなと思いきや、喋ってみると人当たりが良く接しやすい。授業はしっかり聞いているが、休み時間にはうとうとしていることも多い。そして家が大きいらしく、馬に乗れる。不登校を極めていたのでぼくの知っている彼の話はどれも人づてに聞いたものばかりだけれど。
所謂霊感体質だって話も聞いたことがある。でも、おばけなんて本当にいるのかな。怖いからいない方がいいな。見えたり感じたりなんてしちゃったら、ぼくなんて震えあがって叫んで逃げて大騒ぎしてしまう。いませんように。
「変なこと聞いていい?」
「いいですけど」
「その……。もしかして、おばけの仕業で、馬屋原君が解決したとか……?」
「……はは。亀倉さんは面白いことを言いますね。おばけなんて信じているんですか? いたとして、おれが対応できるわけないでしょう。あの噂を真に受けてるんですか。怪奇物とか和風ファンタジーが結構好きなので、そういう話ばかりを読んでいたら変な噂ができあがってしまっていて。困りますよね」
そう言って馬屋原君は苦笑した。そういうおばけのあれやこれやというものはないらしい。おばけと戦ってやっつけるだなんて、そんな物語の中のような人が身近にいたらびっくりしてしまう。なんて、鏡を抜けて不思議の国へ行くぼくが言うのはおかしなことかもしれないけれど。
「おばけがどうとかはともかく、図書室のトラブルは解決したので安心していいですよ。心配だったら数日様子を見ていただいて構いませんから」
「疑ってはいないけど……。対策会議をする予定だったけど解決しましたって話をすることにしようか。ね、神山君」
「そうだね。……ねえ馬屋原君」
「何です、神山君もおばけの話ですか」
語気がちょっぴり強い。あまりおばけの話は振らない方がいいのかな。ぼくもアリスアリスって言われるの嫌だし、馬屋原君も噂で広まった変なことをネタにされるのは嫌なのだろう。
「ううん、おばけは怖いから……。あの、馬屋原君ってお坊ちゃまなの? 運転手さんがいて目立つ車があるんでしょ。お家も大きいって」
「お坊ちゃま……。まぁ、間違ってはいないのかもしれませんが……。そんなにいいものでもないですよ?」
「そうかなぁ。ぼくはちょっと羨ましいな。大きなお家に住んでて、遠目で見てもあんなに綺麗な馬に乗っちゃって、なんだか物語の王子様みたいで」
「王子様……! 神山君、本当に物語が好きなんですね。王子様の馬のようだと言ってもらえてトラモンターナも喜びます」
トラモンターナ。馬の名前かな? ぼくが「物語みたいでいいなぁ」と言ったのは馬にではなく馬屋原君にだったのだけれど、まあいいか。
王子様という自分の言葉で、頭の中で本のページが勢いよく捲れ始めた。次の本、次の本。次の本棚。ずっと考えていたけれど、王子様というものは格好良くて美しいから、そういうものが好きな大和さんには王子様の出て来る話を薦めてもいいかもしれない。ふとしたきっかけでこういう思考は動くものだな。
「おれの家のことはどうでもよくて……。結論として、図書室のトラブルは解決しました。おれの話は以上です。今後もお仕事頑張ってください。何かあれば生徒会まで」
「一応あたしも生徒会メンバー扱いだからね? 呼ばれないけど」
「分かっていますよ。前に放送局長にも同じことを言われました」
執行部役員ではないけれど、各委員会の委員長と学級委員長は生徒会メンバー扱いである。生徒会の会議に璃紗も参加している。図書局、放送局は外局と呼ばれ部活とも委員会とも異なる位置に立っていて、そして部活であって委員会でもある。ぼくには詳しいことはよく分からないけれど……。
馬屋原君は体の向きを変え、二時間目の準備をし始めた。
「……今回の件についておれから他に話すことはないです。あの、おばけを退治したとかそういうのは言って回らないでくださいね。そんなことないですから」
「気に障ったようだったらごめんね。大丈夫、虚偽の情報をばらまくなんてしないから。改めてありがとう、馬屋原君。あたし達本当に困ってたから」
「……おれも本は好きなので。そろそろ先生来ますよ」
雑談していたり立ち歩いていたりしていた生徒達が自分の席に戻って行く。ぼくも準備しなきゃ。
新しいクラスになって、新しい知り合いができて。まだ名前と顔が一致しない人も多いけれど、馬屋原君とはそれなりに上手くやっていけそう。ちょっぴり苦手だなと思っていたのに、ここ数日話をしているうちに慣れて来た。
教科書とノートを机の上に出してから隣を見ると、馬屋原君は頬杖を突いて右斜め前を向いていた。一番廊下側の席で、廊下に面して窓のある教室ではないためそこにあるのは床と壁と黒板と掲示板だけだ。先生が入って来てもまだちょっぴりがやがやしている教室の中、誰もいない方を見ている生徒会長はにこりと笑って頷いた。何を言っているのかは聞き取れなかったけれど、口も少し動いていた。まるでそこに誰かがいるかのように……。
……たぶんぼくの見間違いだ。気のせいだ。何も見なかったことにしようと思う。
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