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事実、“幸せになりたければ、もっと御布施を” という宗教の方は流行るらしい。 きっと 犠牲に見合うものが得られる... と。 「モレクは、そこを利用する。 “純粋な魂を捧げれば、願いは叶えてやる”。 罪の赦しを得るためでなく、欲を満たすための 生贄だ」 朋樹が眼を臥せる。 日本にも、こうした生贄崇拝はあった。 人柱や人身御供だ。 雨乞いのためや、飢饉を逃れるため。 堤防や橋を造るため。 災厄を為す神を宥めるため。 “一人捧げるから 助けてくれ”、というものだ。 悪魔は 魂で契約を結び、願いを叶える。 “それと変わらない” と言われたら、そうなるだろう。 「アハズが 子供を火に通した時、父は嘆いた。 それまでも、父は幾度も “自分の子を火に通してはいけない” と忠告してきた。 火に通すことで その生贄の魂は、捧げた神のものとなる。欲のために契約を結ぶことになる。 モレクに魂を渡してはならない。 欲には果てがない。崇拝は過熱していく」 一度 何かが叶ったら、次に また困った時や欲が出た時に、犠牲を出すことを考える。 たぶん、最初より簡単に。 アハズの次の王、ヒゼキアの時に イエスのことを予見したイザヤの祈りが 主に届いて、ミカエルが降りてるんだよな。 侵攻してきていたセナケレブの軍を滅ぼしてる。 なのに、その次のマナセ王も 主を信じきれず、モレクに子を捧げた。 信じることより、犠牲を払うことの方が 焦燥や我慢は少ないのかもしれない。 犠牲を払えば、“払ったのだから” と安心 出来る。 それは、聖父を裏切ることにもなるんだろう。 聖父の子でもある子供を、欲のために火に通して売る。
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