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昭和二十年八月九日、空襲および警戒警報が解除されてしばらくたった午前十時半すぎに、緑は下駄箱の中に夫の弁当が忘れられているのに気づいた。従妹から北に三キロ程離れた水車小屋まで一緒に小麦を挽きにいこうと誘われたが、断った。昨日の午後はいつにもまして腹を空かせたに違いない隆のために、自分の昼飯も加えて二人前の分量の弁当を作り、昼休み時間までに必ず大学病院に持っていかねばならぬと、午前十一時二分、森山の屋敷の台所にいた。真夏の太陽が、浦上のあらゆる緑を力強く輝かせていた、その日その時に。
*
緑は、緑の霊魂は、気がつくと宙に浮いていた。
焼けてちぎれた布切れや紙切れが、木枯らしに似た風に舞いながら牡丹雪のように落ちてくる。空は厚い原子雲に、あたりは土煙に覆われ、太陽の光が遮られて薄暗い。
金比羅山は、緑の色を失っている。爆心地から五百メートル強の距離にある浦上天主堂は、二つの鐘楼を吹き飛ばされ、崩れている。見わたす限り、浦上の町は破壊されている。あらゆる夏の緑も消えている。代わりに、あちらこちらで赤い炎が盛り、眼下では森山の屋敷がごうごうと燃えている。裏の小さな森をなしていた木々は、枝葉もろとも幹をもがれ、火の手が上がっている。榎と楠の大木も、同じ高さで折れ、吹き飛ばされている。
原子雲から幾筋もの光が射していた。カトリック信者の数多の霊魂が、天国へ召されていく。緑の叔母も、近くで昇天していた。
《おタケおばも、家の下敷きになったとばいね。ばってん、よかったね。天国にいけて。そがん手招きばするとは止めて。うちは、まだいかれんとよ》
緑のもとにも光が降りてきた。早世した長女と三女とともに。
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