聖母被昇天の大祝日、八月十五日を控えて

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 日の光を浴びた金比羅山は、季節や時間ごとに色合いを変えつつ、繁茂した木々の緑が燃えているかのように美しい。その裾野に、甲羅から出た亀の頭によく似た形状の「ガメ山」と呼ばれる小高い丘がある。かつては潜伏キリシタンを見張る庄屋の屋敷があったガメ山の上に、高さ二十五メートルの双塔の鐘楼を持つ天主堂が聳え、無数の小さな丘や谷に広がる浦上の町並に臨んでいた。  赤煉瓦造りの東洋一の大聖堂から、石畳の小道を北西に上って下って、また上って計約五百メートル。南西に稲佐山を望む上野町の丘の上に、森山の屋敷はあった。眺めがよく、金比羅山を後景とした横向きの浦上天主堂も映える。  永井隆は、桜の花咲く昭和六年の聖金曜日の夕方に、初めて森山の屋敷にやってきた。森山家は、江戸期二百五十年余の禁教令下に、七代にわたって戸主が浦上村の潜伏キリシタンの総頭である帳方を務めてきた。  昭和二十年代半ばに、隆は「浦上の聖者永井博士」と呼ばれるまでに至るが、松江高等学校時代に唯物論の影響を受けたこともあり、未だカトリックには縁がない。森山の家柄など、知る由もなかった。在籍している長崎医科大学は、本尾川と道を隔てて天主堂の南隣にある。一万人余のカトリック信者が暮らす緑豊かで起伏の多い浦上の町並を、とりわけ小さな森とともにある帳方の末裔の屋敷――明治初期に仮天主堂を兼ねていたこともある――を、よく講堂の窓越しに眺めていた。  二本の石柱のみが建つ森山家の門の前で仁王立ちになり、隆は石段の先にある木造二階建ての屋敷を見上げた。 (近くで見ると、なおさら立派ばい)     
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