聖母被昇天の大祝日、八月十五日を控えて

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 一人娘がきれいに掃除した前庭には、桜、通脱木、橙、柿、琵琶、薔薇、牡丹が植えられていた。柵の向こうには畜舎があり、牛と鶏の鳴き声が聞こえてくる。 (よし。今の下宿は引き払おう)  隆は、心を決めた。  最後の帳方の吉蔵――安政三年の浦上三番崩れと呼ばれるキリシタン検挙事件で捕らえられて獄死殉教した――の孫である貞吉は、「うちの生業は牛の仲買で、大学のお方ば下宿させるごと立派な家じゃなかですけん」と頑なに拒んだ。隆は、引き下がらざるをえず、緑にボタンを縫い直してもらった学生服を手に、再び門の前で仁王立ちになって屋敷を見上げた。絶対に諦めないと、重ねて心に決める。暮れかけた春の夕日が、小さな森の上空を赤紫に染めていた。  明くる土曜日、隆は医科大学の講堂の窓越しに浦上の町並を改めて眺めた。小さな丘の上にある森山の屋敷と、午前の日の光を浴びて緑が鮮やかに燃えているかのように見えるこんもりした森が、いつにもまして目につく。 (美しか……ほんなこつ、美しか)  通された屋敷の中を思い出す。一階の北東の六畳間の祭壇に、禁教令下に礼拝された青銅の十字架が飾られていた。隣の八畳の居間に、夕日を透したステンドガラスの窓があり、床の間に置かれた高さ一メートル程の白磁の聖母マリア像が目を閉じ合掌していた。     
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