聖母被昇天の大祝日、八月十五日を控えて

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 昭和八年二月、隆は満州事変に短期軍医として出征することになった。入営前夜に、緑と口づけを交わし、抱き合いながら帰還後の将来を固く約束した。この後に胃の持病を悪化させて亡くなる貞吉も、望んでいたことだった。  昭和九年五月、隆は除隊となり、長崎医科大学の物理的療法科に復し、翌六月に公教要理の口述試問に及第して洗礼を受けた。同年八月、隆と緑は結婚し、浦上天主堂で誓いを交わした。  緑が長子を身籠っていた昭和十年二月、隆は大学病院の耳鼻咽喉科において急性咽頭炎と診断された際に蛋白剤の注射を打ったことが原因で、アナフィラキシーを発してしまい、またも危篤に陥った。回復後に持病となった喘息の症状を押してカトリック信者の家に往診にいった夫を、緑は背負って牡丹雪の降る山道を帰ったこともあった。  昭和十五年二月、隆は二年半にわたる両度の中国出征から帰還した。同年四月、長崎医科大学に復すると、助教授に任ぜられて物理的療法科部長となり、月給が百円に上ったことを喜んだ。妻の遣り繰りが楽になるからだった。緑は、昇給よりも、夫の出征前の研究が認められたと喜んだ。冊子に掲載された隆の医学論文を目にすることを、何より楽しみにしていた。     
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