147人が本棚に入れています
本棚に追加
/267ページ
「粉が付いているぞ」
ウィリアムはドロシーの目元に手を伸ばした。
その手を、ドロシーは叩き落とす。
「触るな」
「嫌だ」
今度は両手が伸びてきて、無理やり目元をごしごしと拭かれた。
「目が赤いな、泣いてたのか?」
「ンなわけないじゃん。アンタが乱暴にこするから、赤くなったんだろ。お肌が荒れたらどうするんだ」
「その時は、念入りにお手入れのフルコースをしてやろう」
冗談を言えたことに、ドロシーは内心安堵する。
ウィリアムと顔を合わせたとたん、暗雲の立ち込めた心が少しだけ軽くなった。
鬱陶しいウィリアムの言葉も、今はなんだか心を落ち着かせてくれた。
「……パイが、食べたかったんだ」
ドロシーは唐突にそう言った。
「そうか、ドロシーはパイが好きなのだな」
めん棒を握りしめたドロシーの手に、ウィリアムの手が重なる。
「ああ、私の大好物だった。ぱさぱさで、生臭くて、固くて――ロンドン一まずいけど、ロンドン一美味しいって思ったんだ」
延べ棒を卓上に置き、釜の火加減を確かめる。
真っ赤な炎が燃えている。温かい筈の火に近づいても、体は冷たいままだ。
自分に嘘をついたせいで、心が凍りついてしまったのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!