196×年 3月

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196×年 3月

「忘れないで」 君は少しだけ首を傾げ、上目遣いに憂いを帯びた瞳が僕を見つめる。そして僕はその視線を避け俯き再び口を固く結んだ。だってそうでもしないと涙が溢れてきそうだから。でも本音は、今この瞬間にも君の姿を目に焼き付けたい。一分一秒の今の時間が勿体ない。でも、君は返事を求めてる。だから僕は今日4度目の同じ答えを口にした。 「何度言えばいいんだよ。絶対に忘れないって」 そして心の中でそっと付け加えた。『だって僕は君を愛してるから』と。 しかしいつまでたっても返事はない。仕方なく僕は少しだけ顔を上げ君の顔を盗み見た。その表情は、僕に悲しみとやるせなさがまた増えただけだった。 別れの時間。彼女一人だけ立ち上がり 「じゃあ、元気でね・・・」 そういって、やさしく微笑むと僕に背を向けて歩き出した。 僕はテーブルの上で両手を硬く握り締めたまま、君の背を目で追う。そう、僕と彼女はこの店で別れると決めた。だから彼女が先に店を出て行くことになったのだ。 今から約二年前、君はあの扉から入ってきた。そして今は僕に背を向けて遠ざかること。それはごく自然に自分の中で受け入れている自分に少し驚いていた。 そしてついに木の扉に彼女は手をかけた。それはとてもゆっくりと開き、外の光が徐々に君を包みこむ。本来その姿は、彼女にまつわる最後の記憶として残るはずだった。少なくとも僕はそう思っていた。 光溢れる外に一歩踏み出した君。そうして木製の扉がゆっくりと閉まっていく。まるで何事もなかったかのように。しかし扉が閉まる間際、一瞬全ての時間が止まった気がした。そして光が差し込むその隙間に、彼女が顔を少しだけ覗かせたのである。 「ウ・ソ・ツ・キ」 口を動かし終えた君は、素早く扉の隙間から離れると同時に、扉はパタンと静かに閉ざされた。 正直、彼女の声が聞こえたわけではない。しかし僕の心に直接その声は届いた。間違いなく、彼女の何かが僕に届いた。 勿論僕はその内容を問いただしたく、咄嗟に立ち上がる。しかし足の指先から手の指先まで震える僕は、かろうじてその場に踏み留まる。そしてありったけの力を込めて両手をテーブルに激しく叩きつけた。 テーブルの上のカップは倒れ床に落ちた。そして僕の腕時計もテーブルにぶつけてしまったらしい。画面は激しくひび割れ、時計は3時を示したまま止まっていた。
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