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「マルちゃん」
薄暗い街灯の下から突然呼びかけられて、マルは体を跳ね上げた。声の方向を見ると、バー・タペストリーのマスターが灯りの中で両手をコートのポケットに突っ込んで立っている。
「何してるの。こんな真夜中に」
あんたこそ、と思ったが遅くまで営業しているバーの店長が夜中に出歩いているのに何の不思議もない。マルは顔を伏せた。マスターは一呼吸沈黙したが、「気を付けて帰りなよ」と明るい声を投げかけて去った。
マルの緊張を読んで深くは追及しない。マルが一言も喋らなくても会話が成り立つ、この気軽さが心地好かった。さすがは接客のプロだ。
マルは視線恐怖症とも言えるほどの引っ込み思案で、喋りかけられても目を合わさず、顔は硬直してしまい、頭の中は混乱してせいぜい一言二言返すしかできない。そして対人関係が苦手な人にしばしばみられるように、孤独への耐性が極端に弱かった。夜には人恋しさに胸を掻きむしることもしばしばだった。そんなマルの緊張が緩む時があった。アルコールの入った時だ。
それに気付いたのはこの地にやって来てまもなくだった。学歴も資格もない若い女が都会で生きていくのに手っ取り早いのは夜の商売。いつの間にかそういう『常識』が頭に刷り込まれていたマルは情報紙を頼りに適当な店に電話をかけ、面接でほとんど喋らなかったにも関わらず、役に立たなければ自分の女にしてやろうという腹積もりのオーナーに採用され、酒を飲んで飲ませて接客することになった。
入店初日、素面のマルは客と目も合わさず挨拶もぼそぼそと口を動かすだけで、先輩から踵で足を踏まれたが、少し酒が入ると急に人の目を見ることができるようになり、もう少し飲むと喋りだした。そんな意外な自分を発見して嬉しくなり、二日目からは営業開始前にウイスキーをワンショット、ストレートで流し込んでからロッカールームを出るようになった。
──これはちょっとした掘り出し物だ。
オーナーは思った。小柄な体と細い骨格は男の支配欲あるいは保護欲求を刺激し、体格に似合わぬ大きな胸は母性への渇望を潤す。長い黒髪が目にかかる姿は妖艶かつ儚げで陰のある女を思わせる。かしましく騒ぐ夜の店にもこういった女の需要は少なくない。
しかしマルはとことん飲むと記憶を失った。目が覚めると知らぬ男の部屋ということもあったが、「どうせ忘れてるし」と言って意に介さなかった。
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