12人が本棚に入れています
本棚に追加
そんなことで済む話ではないと思い遣りのある同僚からは心配され、陰険な先輩からは枕営業をしているとオーナーに告げ口された。オーナーはそんなに尻の軽い女ならどれ一つおれの女にと、当初の目的を果たすためにマルを口説きにかかったが、飲んでいないマルは俯いて口を閉ざすばかりだった。これを拒否と受け取ったオーナーは激怒した。何度誘いをかけても視線すら合わせないマルの存在が、かつてナンパ師として女のすべてを知り尽くしたと自負する自分の敗北の象徴のように見えてきて、一刻も早く排除すべきと思うようになった。とはいえなかなかの稼ぎ手である。経営者としてはおいそれと辞めさせる訳にもいかない。はずなのであるがこのオーナーは間抜けだった。突然マルに理由もなく解雇を告げた。
マルは立て続けに職を失って世の中ってむずかしいと首をかしげたが、生きていくためには働かざるを得ない。ふらふらと町を歩いていてたまたま目についたウイスキー樽を模した看板に惹かれ、スモークのガラス扉を押して入ったのがバー・タペストリーだった。
「いらっしゃいませ」
低い声のマスターは若く見えたが目尻の皺や肌の張り、左の側頭部だけ白くなった髪を見るとそこそこの歳なのだろう。バックバーにはマルが働いていた店では見たこともないボトルがびっしりと並んでいた。
はじめて入った店でマルはシングルモルトを飲みながら陽気に語り、カウンターに居合わせた初老の常連男性と意気投合した。老人は弁当屋を数軒経営しており、マルが失業中だと言うとちょうど近くの店でパートタイマーの欠員が出ているからと、その場で採用が決まった。翌日から出勤したマルは自分に接客業が務まるとは到底思えず三度目の解雇も覚悟していたが、意外にもマニュアル通りの作業なら声も出せ、一連の動きもスムーズにこなせることを発見した。はじめてまともな環境でまともな仕事に就いたことで、飲酒の節度もわきまえるようになり、バー・タペストリーの良い常連客となった。夜のバーでは騒ぎはしないが社交的で、他の客とも会話を楽しめるし、言い寄ってくる男を適当にあしらったり良い顔をしたり、時には誘われるがままに夜の街に繰り出したりすることもあった。マスターは店内でトラブルを起こさない限りは、客同士がどこで何をしようと干渉することはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!