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第1章
注文を聞き、弁当を詰め、袋に入れて客から金を受け取る単調な毎日。パートの給料は知れているけれど、若い女が築三十五年の風呂なしアパートで独り暮らすには困らない。
高校を卒業してから働いていた地元の建設会社を解雇され、家族も友人も故郷も捨ててマルが一人この地にやって来たのは二年前の冬だった。
故郷をなくしたマルが越してきてはじめての朝早く。アパートの錆びた階段を降りたところで、色褪せて端の欠けたプランターが目に留まった。しゃがみ込んで見ると紫色のパンジーが咲いていて、土には霜柱が立っている。かつての故郷ほどではないが、この地も早朝は冷え込む。マルは遠い地に想いを巡らせ、大きな花びらを人差し指で持ち上げた。マルの実家の庭にも同じ色のパンジーが一輪だけある。あのパンジーは春にならないと花が咲かなかった。
──ここはもう、あの土地とは違うんだ……。
マルは花びらを持った指をそっと降ろして土を押さえた。めりめりと音を立てて霜柱が潰れた。
マルという名前は元の職場の出勤初日に、母親から渡されたマルセイのバターサンドを手土産として持っていったことから付けられたあだ名だ。
「みんな地元民なんだからあんた、何もこんな旅行の土産みたいなもの持ってこなくたって」
女性の事務長に言われたが、五人いる男性職員からは『天然』と見られおおむね好意的な扱いを受けた。いつもいらいらしている事務長はそれが面白くない。新入社員の世間知らずを蔑むつもりでマルセイと呼んでやった。しかし長くて言いにくいというのでいつしかマルセになり、国税局査察部の俗称と似ていて縁起が悪いというのでマルに落ち着いた。
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