出町ふたばの甘酸っぱい桜餅

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出町ふたばの甘酸っぱい桜餅

東山の空が淀んで見えた。 空に渦巻く鉛色の雲が形を変えながら北の空へとゆっくり流れていく。 時は春、でも私は目の前に拡がる薄紅色の景色なんて全く目に入らず、話そうかどうしようか、ここまでの道すがら思い迷っていたことが、胸の奥で整理がつかないうちにここまで来てしまった。 京都府立医科大学病院は三条通りから少し上がった所の河原町通りと鴨川に挟まれた、いにしえの京都の風情が漂う風光明媚ところにある。すぐ近くには京都市役所があり帝国ホテルも目の前。 京都の目抜き通り、三条や四条河原町といった繁華街までは歩いても五分とはかからない好立地に位置する。 春のこの時期、目の前を流れる鴨川沿いには見事な桜花の帯が北へ南へと何処までも続く。 じっちゃんの病室はそんな鴨川沿いに面した東側の四人部屋。 以前ここに持病の胆石で入院したときもそうだったけどじっちゃんは個室を極端に嫌がる。 ママがせっかく用意した最上階にある個室も意識が戻った途端にまるで子供が駄々を捏ねるように複数人部屋を要求したらしい。 (保険に入ってるからお金は心配しなくて良いって言うたんやけど) そんな理由じゃないことは私は知っている、おそらくママも。 じっちゃんは人に囲まれるのが大好きだ。何人とも触れあうのが生き甲斐。人が恋しくて仕方がないのだ。 人と絡んでなんぼがこの骨董という商い。 絡んで揉まれた数だけ一人前になれる。 先代のひいじいちゃんに教え込まれたそんな言葉がじっちゃんの 素になっているのかも知れない。 ここには医師を始め病院関係者には音羽屋の馴染みの客が多い。そのせいだかどうだかは知らないけどじっちゃんはどこも悪い所なんてない時でも何かと理由をつけてはここに来る。 「何かええ話おまへんか?」 顔見知りのお医者さんも心得たものでじっちゃんの体のことより目ぼしいお宝の探り合いから話は始まる。 週に三日ほどはここに来て形ばかりの問診をしてもらい血圧を計ってもらい、後はホテルのような北山杉をふんだんに使って設えたロビーがじっちゃんの社交場と姿を変える。ゆったりとした癒しのリラクシングミュージックが流れるなか、自販機で200円と少しお高めの玉露をいつものように買い、時間をかけて周りに愛想を振りまきながらちょびちょびと啜る。 「やっぱり古伊万里は大鉢に限りますな」 身体中に管を差しながら点滴の台車を引きづって顔見知りのおじさんが声をかけてくる。 「いやいや大鉢なら久谷やわ」 抗がん剤で髪の毛が抜け落ちた頭を擦りながら割り込む人。 知らぬまに出来上がるじっちゃんの周りの輪がこの病院の日常の風景だ。 「鴨の桜は今年も見事やなぁ」 話す言葉が見つからず私は思わず外の桜に目を移す。 三階の病室の窓にまで伸びる桜の木はもう盛を過ぎたのかはらはらとその短い命を散らし始めていた。 「せっかく先生も気つこうてくれはって、ええ部屋取ってくれはったのに」 私の溜め息の向こうにはほんの数週間で一回り小さくなってしまったじっちゃんがいた。 (桜の見える窓際がええ) そんなじっちゃんの無理強いも気の良いおじさんが見るに見かねて変わってくれたらしい。 「みんなに迷惑ばっかりかけて・・」 「まぁまぁ沙羅陀ちゃんそう言わんと。音羽さんはここでは人気もんやさかい」 そう言ってくれるのは京都弁こてこての主治医の里見先生。 40歳、長身美形にも関わらず謎の独身。 廊下を白衣を靡かせて歩くだけでさわやかな風が靡くよう。 ただその物腰の柔らかさが若干のお姉臭を漂わせているのも事実なんだけど。 「今年は花見はもうお預けやなぁ」 里見先生に支えられてベッドから体を起こしたじっちゃんは 力のない声でそよぐ春風にささやくようにそう言った。 来年はいつものように盛大にやりましょ 里見先生の声にじっちゃんは窪んだ目をしばつかせながら小さく首を振る。 もう来年はないやろ、先生 ベッドを挟んで見る里見先生の端正な口許が綻ぶ。 笑うと小さな笑窪ができるその表情は人懐っこく誰にでも安心感を与えてくれる。 「来年どころか、10年でも20年でも音羽屋さんには生きて、ひ孫さんの顔も見てもらわんと」 「ひ孫なぁ・・」 じっちゃんは小さな笑みを浮かべ溜め息をひとつ落とすとその視線を 私と里見先生に向ける。 「先生が沙羅陀を娶ってくれたええんやけどな」 じっちゃんの口癖がまた始まった。生きてたらパパとほとんど変わらない歳の彼に私の未来を見てるみたいだ。 「沙羅ちゃんにまた怒られますよ、そんな事言うと」 里見先生がいたずらっぽい笑みを私に向ける。 「もぉー、そんなことより・・」 私は少し紅らんだ頬を隠すように持っていた紙袋をここぞとばかりに先生の前にずんと差し出す。 「この桜餅、里見先生も食べません?」 「おっ、出町ふたばの桜餅やな。よう買えたな」 「うん。まだ朝早かったから、行列も少のおて」  日頃でも豆餅で人気のある出町柳の出町ふたばは桜の花が綻びるこの時期には二十三重の人垣が歩道を埋めつくす光景は珍しくない。 「これは先生に。こっちの袋は豆餅も入ってるから医局で皆で食べて」 「沙羅陀ちゃんは相変わらずやなぁ。よう気が利くし。 その上近頃は急に女らしゅうもなって綺麗になって」 「ほぉーっ、なんや先生もその気あるみたいやなぁ」 「ほらまた、じっちゃんの術中に嵌まってるやん先生。 もうええから桜餅持ってお仕事に戻って」 頬が赤らんで顔の周りが熱くなる。おそらく術中に嵌まっているのは先生じゃなく私な訳で。 「まぁまぁそう言わんと。今日は花見日よりやし二人でお手て繋いで桜の下で桜餅食べてきたらどうや」 「じいちゃん!・・・」 「さぁさぁ、沙羅ちゃんの爆弾が破裂せんうちに退散退散」 長身をこそっと丸めてまるで欽ちゃん走りのようにそそくさと退散する里見先生。彼が来るといつも病室の中に暖かい空気を残して帰っていく。 「ええ人や・・」 出ていくその背中を見送りながらじっちゃんがぼそっと呟く。 私が来ると私を魚に始まるいつものルーティーン。おそらくそんな事に加担するのも彼一流の治療の一貫なんだろう。 「そうやなぁ」 返す声が幾分悲しげになったことをじっちゃんが気づいていなければいいんだけど・・・。           ※※※ ※※※ 「それで。沙羅陀の目利きはどんなもんなんや?」 「目利き?目利きって」 「うん。見たんやろ。というか会うたんやろ、あの子と・・・」                 ※※※ ※※※ 学校での黒板に描かれた古代絵巻。 いにしえの世界の風を感じた瞬間の事を私はじっちゃんに伝えた。 「そうか、見えたんやな、沙羅陀にも」 「見えた?私にも?じゃあ、じっちゃんも・・・」 じっちゃんは小さなため息をつきながら首を振る。 「そうやなぁ、確かあれもこれと、今日の日とおんなじような春の陽気がええように感じられる・・・週末の昼下がりのことやったかなぁ」 奥の居間で陽気に誘われてうとうととし始めた時、店の玄関にふと人の気配を感じて顔だけを通り庭に突き出してみたらひとりの女の子がしゃがみこんで玄関のガラス越しにこちらを覗きこんでいた。鍵は当然開いている。平日の午後、人では少ないとはいえ通常通りの営業中。 小さな体に持て余し気味の赤いランドセル。背丈からみると小学校1,2年生ぐらいだろうか。ガラスに顔をくっつけて鼻をむぎゅっとさせながらしきり店の中をうかがっている。 なんやろ? 近所の顔見知りの子ではなさそうだった。周りに親御さんがいる気配もない。驚かせないように履き物をそっと足に滑らせて通り庭に出た。 暖簾の隙間から覗くと小さな顔を左右へと振りながらしきりに何かを探しているようだ。 さぁどうしたものかとそのあどけない顔を見ながら溜め息をひとつ落とす。普通にお嬢ちゃんと声をかければそのまま駆け出して行きそうな気がしていた。 できるなら彼女の興味の糸は切らしてあげたくない、そう思った。 小さい頃の好奇心は大切、そこからは色んなものが生まれる。 ここでの出来事がこの子の一生に繋がるような夢に発展するかもしれない。大袈裟かもしれない、でも骨董屋というものは元来 雲を掴むような夢を売る商売。何気ない日常から始まる物語は大切。特に小さい子のそれは希少だ。 とは言っても毎回そんな事を丁寧に掬いとるように考えているのではない。 この時のこの子には何か伝わって来るものがあったんだと思う。 「こんにちは。はいってきてええよ」 ガラス戸の向こうに目を丸くした女の子の顔が拡がる。 そしてそれはみるみるうちに満面の笑みに変わっていく。 被ってみたのは何十年も売れていないお馬さんの着ぐるみ。 沙羅陀が小さい頃、泣き止まないであやすときにはいつもこれを使った。 手の部分はなくいわゆる上半身だけすっぽりと被るやつだ。 白馬でふさふさとした長いたてがみ、優しくて真ん丸で少し垂れ下がった目はまるでアニメから飛び出たキャラのようだった。 「ハチミツのたくさん入ったホットミルクは好きかな、お嬢ちゃんは?」 「うん、あまーいミルクはだいすき!」 牛乳なんて年に一回か二回、それも啜る程度にしか口にしない私だけど沙羅陀の為に常時一リットル瓶はストックしてある 直送のプレミアムなものが。 そして真っ赤な大きなマグカップを両手で大事そうに抱えながら 招き入れた小さな来客は初めて会った私に全てを許すような無邪気な笑顔を向けてこう言った。 「お馬のおじさんはあの子のお父さんなの?」 「あの子?」 それがこの音羽屋の蔵の中で何十年もの間、黙して語らず時を過ごしている”あの子”だと分かるには今少しの時間が必要だった。
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