旅の栞について

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 相手は二十代だと思われたが、少し日に焼けて、運動部の女子を想起させる活発さが感じられた。  彼女は、旅が趣味だと自己紹介した後、「ツバメ」と名乗った。勿論、渡り鳥である点から由来した仮の名だと見当がついたため、 「それなら僕のことは、ヒバリと呼んでください」  と、僕も格好付けて言ってしまった。 「あれ、ヒバリって渡り鳥だったっけ」  反射的に出た台詞に取り返しがつかなくなった僕は、そのまま本名を名乗らないことにした。その名前を必要としないこの空間は、僕の望む《孤独》に近いと感じた。 「基本的に留まっている鳥ですが、確か北海道からは寒気を逃れて、南下するそうです」 「旅人もどき、ってこと?」  ツバメさんの質問を、僕は曖昧な笑みで受け流した。  一瞬で他人と、これほどの親しみを覚えたのは初めてだ。恐らく互いに、相通じるものを感じたからだろう。僕らには微かながら、林を抜ける風にも似た、穏やかな関係が築かれていた。  成り行きで僕とツバメさんは、辺りに散らばる岩の一つに座り込んで話をすることになった。彼女はあくまで本を閉じないまま、会話をつづけた。よほど本が好きらしい。 「君は、どうしてここへ来たの?」  尋ねられて、僕は正直に答えた。 「ある小説で、ここが触れられていたんです。南禅寺の奥に、古代ローマみたいな水路橋があるって」 「なるほど。実際に見た感想は?」  僕は座ったまま視線を上げ、いにしえの竜の如き水路閣を眺めた。 「初めは、勿論自然の奥の人工物だったんだろうけれど……時間がそれを混ぜ合わせた、ように感じました」 「うん、同感ね。水路閣はもはや自然の一部だから」  自然に自然の中にあり、しかし奇妙さも寄り添っている。現実感は、とっくに町のほうへ去ってしまっている。  ここなら、どんなことでも起こり得そうだ。 「それじゃあ……ヒバリくん。君はどうして一人旅をしているの?」  ツバメさんは声色こそ変えないが、その口調には、僕への配慮も薄く伝わった。  林には一定数の観光客がいた。数人去ると、空白を埋める数人がまた訪れる。定員などないのに、保存則がきちんと成立している。まるでこの空間で、世界が完結しているようだった。 「まあ、親には大学のオープンキャンパスへ行くことを建前に許可を貰ったんですが。本当は……」  僕は人々を視界に入れたまま、言葉を選び、彼女へ告げた。
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