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宗介は母との会話もそこそこに病室を出た。
既に日は沈みかけていた。
宗介が足早に病院の廊下を歩いていると、ドアが開け放たれた病室の前に出た。
何気なしに宗介はその病室の中に目を向けた。
女性がいた。
年齢は宗介と同じくらいだろうか。窓辺に立って外を見つめている。窓から入るそよ風が、肩ほどの長さの彼女の黒髪を静かに揺らしている。ラフなグレーのルームウェアを着ているが、背筋はスッと伸び、細い身体ながらも凛とした佇まい。化粧気はないが、とても整った顔立ちで、誰が見ても一目で美人だと分かる。
宗介は彼女から目が離せなかった。
「あの…、何を見ているんですか?」
思わず宗介は声をかけてしまった。
少しの間があり、
「蝉よ。今、羽化しようとしているところなの」
彼女は目だけを宗介に向けて答えた。透き通るような声だと宗介は思った。
彼女は窓から少しだけ顔を出して、病院の壁を登っている蝉の幼虫を見ていた。
土の中から出てきたばかりのようだ。彼女の病室は一階にあるため、近くの木の根元から這い出て、この壁を登って来たのだろう。窓から手を伸ばせば届きそうだ。
暫くの間、2人は登ってくる蝉の幼虫を無言で見つめていた。
「無事に羽化できるといいですね。蝉の羽化って失敗することも多いと聞きますから。でも、ずっと我慢してやっと土の中から出て来たのに、羽化したらあとたった1週間しか生きられないなんて、なんだか切ないですよね。それに、土の中にいれば、まだまだ生きられるかもしれないのに」
宗介は何気なく口にしただけだった。
「切ない…?どうして?」
思わぬ彼女の返答に宗介は戸惑った。
彼女は続ける。
「あなたには蝉の気持ちが分かるの?」
彼女は宗介を見つめながら言った。
別に彼女が嫌味を言っているわけではないことはその目から分かる。
彼女の質問にどう答えるべきか宗介が逡巡していると、空いたままの病室のドアがノックされた。
「遥さん、体温を測る時間ですよ。」
若い女性の看護師が親しげに彼女に声をかける。看護師は宗介にも目を向けたが、特段注意をされる様子もない。
「あの、それじゃあ、また」
宗介はなんだかいたたまれなくなって彼女の病室を出た。
彼女、遥は無言で宗介を見つめていた。
宗介は病室を出ると、生まれて初めて蝉のことを考えた。もし自分が蝉だったら…。
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