9th Dec 2018 /

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コストパフォーマンスや、読者が求めているもの、それを考えるという点は非常にビジネスライクだ。 小説を書く上での、そういった観点、捉え方からアプローチをする方法はたしかに存在するのだろうけれど、それは最初から小説家を志望する人間が考慮しなければならない点なのか、と言うことに関しては疑問である。 自己を確固として確立しているひとならば、そのような目的意識で「新商品を」創作することも間違ってはいないだろうし、むしろ奨励されるべき行為だろう。 けれど、私のような、スタートラインにすら立てていない人間には、そんなビジネスライクな思考は不必要なのではないかと思う。 不必要、というか、まだその段階を懸念すべきステージに立っていない、という言い方のほうがしっくりくるかもしれない。 いずれそのように考えなければならない、あるいは、そのような目的意識の元に創作活動をすることも視野に入れなければならないのかもしれず、頭から尻尾まで商業的創作を否定しようという意見を持っているわけではない、ということは一応記述しておく。 森博嗣、それに現代オタクメディアカルチャを少しでも覗き込む際に否応なく直面しなければならないそんざいといえば西尾維新、私にとってはどちらも、各自なりの商業的創作活動を確立させているように見える。 けれど、私のように素人考えの浅はかな者が往々にして陥りやすいのは、そういった成功者の足跡を、意図せずとも自分の都合のいいように解釈し、または都合のいい部分だけ抜き取って、自己に投影しようとする試みであるような気がする。 村上春樹が文壇に登場したのちに、「群像」に応募された作品は、村上春樹作品を追随したものが非常に増加した、というエピソードにも得心がいく。 私がしなくてはいけないことは、もちろんある意味では模倣である、それは間違いない。仮に文学作品を芸術と呼称することが許されるのならば、芸術とは模倣に始まり模倣に終わる、という箴言もある。 けれど多くの場合、人は何かを模倣しようとする際に、どこからどこまでを模倣し、どこからを自分自身とすれば良いのかを測りかねるのではないかと言う気がする。 少なくとも私は、創作活動とは自己の分身の具現化であると考える。
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