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「もう月光虫が飛んでいますね」
不意にシンはそう言うと、川縁に腰を下ろした。川面を滑る小さな虫達は月明かりを敏感に感じ淡い黄色の光を発する。
「そうだね」
淡く輝きを放つ川にシンが指を潜らせると、パッと飛び立つ月光虫が一瞬煌めきを増す。父が好きだった景色。温和で優しく、誰からも慕われる立派な人だった。私は貴方に、届く事が出来るのだろうか。アルベルトは亡き父にそう問い、思わず唇を噛み締めた。
「そんな顔は、私の前だけにして下さいね」
不意に響いたシンのその声に、アルベルトは慌てて頭を振った。シンは特に表情について厳しく言う。不安、悲しみ、迷いを顔に出す事それは王として未熟だと、よく叱られるのだ。それでもこんな風に二人の時だけは許してくれる。人に甘えてはいけないと分かってはいても、この男になら甘えても良いと思わせる、それがシンの持つ不思議な力だ。
小さく頷いて、アルベルトも同じように川縁にしゃがみ込んだ。
「シンのいた国にも、月光虫はいるの?」
一瞬、シンはアルベルトに視線を向けたように見えたが、また川面に戻された瞳は光を失ったように見える。
「さあ……どうだったでしょう」
風が二人の間を通り抜け、それがまるで埋める事の出来ない、深い溝のようだ。
「そっか」
長い時を共に過ごしても、埋まらないその溝が、酷く寂しく感じた。
「そろそろ行きましょう」
差し出された手を握る。大きくて硬くて、そしてとても暖かい手。立ち上がる為だけにかしてくれたそれは、アルベルトが歩き出すとゆっくりと離れる。いつもそうだ。それが堪らなく、彼の小さな胸を締め付ける。何故か、それは、考えてはいけない事のような気がした。
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