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しかし身体に走る衝撃は、痛みではなく優しい温もりだった。
「何を、しているのですか」
怒りを含んだ声にゆっくり瞼を開くと、揺れる黒い瞳が見下ろしていた。肩で息を付くシンの姿に後悔が押し寄せる。
「ごめん、なさい」
小さく呟くとシンはアルベルトを優しく地面に下ろした。これはもうこっぴどく怒られる。そう思っていたのに、目線を合わせるように屈んだ男の瞳には、悲しみの色だけが濃く浮かんでいた。
「貴方に何かあったら、私は先代に顔向けが出来ない」
常に強く、揺らぐ事のないように見えるその瞳の奥の複雑な感情は、やはり読む事は出来ない。父に忠誠を誓い自身を守る男。走って助けに来てくれた嬉しさの影で、やはり少しだけ、胸の奥が痛んだ。いつになったら民は、シンは、父ではなく、自分を見てくれるのだろう。
「……アル様、聞いていますか?」
訝しげに覗き込む顔に我に返るや、ゾッと背筋を悪寒が駆け抜けていった。なんて事を考えていたのだろう。父を超えるなんて、恐れ多い。民が未だ王子と呼ぶのも、シンが叱るのも、全て不出来だからに他ならないではないか。アルベルトが自身にそう言い聞かせ小さく頷くと、シンは背筋を伸ばし指笛を吹いた。澄んだ高い音色が風に乗って響き渡り、逃げた馬が遠くから走って来るのが見えた。
頭を摺り寄せる愛馬を撫でながら、シンは突然強く放った。
「例えばこの馬が貴方を傷付ける事があれば、私は迷う事なくこの馬を殺します」
「何を言っているんだ!」
恐ろしい言葉に驚いて見上げると、揺れる瞳がぶつかった。
「二度と、こんな事はおやめ下さい」
漆黒の鬣に深い色の瞳。首筋に大きな傷を持つ青毛の馬は、十年前に瀕死のシンを乗せこの国に現れた。いわば彼の全てを知る唯一で、命の恩人であり、また親友なのだろう。それを────。
「反省している。そんな恐ろしい事、言わせた事も」
シンはその言葉に優しく微笑んだ。だがそれは、やはりアンナに向ける笑顔とは違う。何か。それはわからないが、高く厚い壁を感じるものであった。
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