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ふと視線を落とすと、揺らぎを知らぬ強い男は、膝の上で握った拳を小さく震わせていた。フィリアの民は怒りを知らない。憎しみを知らない。叫ぶような悲しみを知らない。だからきっと、シンの心を理解する事も出来ないし、シンが心を開かないのかもしれない。そう思うと、虚しさが小さな胸を押し上げた。
「シンの悲しみや、その静かな怒りを分かってあげられない事が、私は悔しい」
戦とは、これ程に強い者さえ捻じ曲げてしまうのだろうか。それはとても寂しいことだと、アルベルトは知れず胸を痛めた。
また暫く、二人は言葉を交わさず川面を見詰めた。風が一際冷たく感じると、シンは立ち上がりいつものように手を差し伸べる。
「春が訪れたといっても宵はまだ寒いですね。さあ、帰りましょう」
素直にその手を取ると、やはり未だ小さく震えている事に気付く。見上げた瞳があまりにも儚くて、この男がいつかどこか遠くへ行ってしまう。そんな恐怖が襲った。
「アル様、どうかしましたか?」
何処か何時もと違うアルベルトの様子に驚いたシンが離そうとした手を、アルベルトは強く握り締めた。
「離さないで」
その言葉に、シンは一瞬、息を呑んだ。夜の闇の中で月明かりに浮かぶ表情は強張り、まるでそれは、絶望を見たようなものであった。だがアルベルトは気付かない。彼は、絶望を知らないのだから。
手を繋ぎ、ゆっくりと歩く夜道。小さな心臓が、その存在を主張する様に大きく脈を打つ。伝わる熱が二人の間を常に隔てる深い溝を埋めてくれるようで、アルベルトはまた強くその手を握った。
アルベルトはこの国の王で、シンは忠実な家臣で、そして何より、男同士。いつかこの国の跡目を継ぐ子を残さなければならない。だからずっと目を背けてきた想いがあった。それでも今この瞬間、胸を締め付けるこの想いに、最早見て見ぬフリは出来なくなっていた。
漆黒の闇夜の中、繋がれた掌から、シンに対するこの想いが、恋なのだと知った。
第一章・完
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