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「せ、せ、征一郎さん……セイチローさん……せいさん……せいいちろ……ううむ」
惣太は病院にある個室のトイレで一人悩んでいた。
ついこの間、伊武からそろそろ名前で呼んでほしいと真面目な顔で懇願された。正直、お互いの呼び方などなんでもいいだろうと付き合う前は思っていたが、実際に付き合ってみると非常に大きな問題だと分かった。
伊武の屋敷には「伊武さん」がたくさんいて、両親や兄弟だけでなく親戚筋にも伊武さんがいる。性別も年齢も皆バラバラだ。そして相手は全員ヤクザ……気軽に呼べるわけでもなかった。
――だからって、伊武って呼び捨てるのも変だしな。
自分の恋人である伊武を確実に呼び止めるためにはファーストネームで呼ぶしかなかった。
「征一郎さん……か」
なんとなく敷居が高い。緊張するというか、要するに恋人的な距離感にドキドキしてしまうのだ。伊武の反応も想像できるだけに気が重かった。
名前を呼んだら、きっと目をキラキラさせながら「先生!」と叫んで抱きついてくるのだろう。そんな時の伊武はちょっとだけ受け止めづらい。愛の過積載にたじろいでしまう。
その伊武は先生呼びのままで大事な所だけ「惣太」と呼んでくる。主に……そんなシーンでだ。呼び名が安定していないのは伊武も同じで、そこは腑に落ちなかったが、惣太の方が呼び方を征一郎さんに変える必要は確かにあった。これまでの喋り方も、だ。
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