8人が本棚に入れています
本棚に追加
普通であれば与力の家の嫡子は、十四、五歳で与力見習いとして出仕をはじめる。そんな少年たちに混じって追い使われる毎日だった。
どうにも風当たりの強い一日の勤めを何とか終えて帰邸したところで、やれやれというわけには行かない。
久右衛門は人物で、世間的によく聞く婿養子的な居心地の悪さを松之輔に感じさせることは無いのだが、何しろ「奥様」のご機嫌を取るのは大変だ。
八丁堀の七不思議の一つに、「奥様あって殿様なし」というのがある。
御目見以上の旗本の当主のことを殿様と言い、その妻を奥様と言う。このくらいの家格になると、屋敷も表と奥に分かれるからだ。
しかし、八丁堀の与力は、二百石の旗本格だが不浄役人ゆえにお目見え以下で、旦那と呼ばれるのだが、なぜだか妻のほうは奥様だった。
「おかえりなさいませ、まつのすけさまーっ」
耳ざとく駆け出してきた幼女が、飛びつかんばかりに出迎える。
松之輔は、屈んで目線を合わせた。
「……楓殿。今日は遅くなりますゆえ、先にお寝み下さいと申しましたよ」
しかし、楓はぶんぶんと首を振り、
「いいえ。かえでは、まっていますと、もうしました。かえでが、おきがえを、てつだうの。わたしが、まつのすけさまのおくさま、なのですからね」
ぎゅっと小さな拳を握り、ぷうっと頬を膨らませた。
この、当年取って六歳の幼女、楓の婿ということに、松之輔はなっているのである。
最初のコメントを投稿しよう!