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「先生が好きなんです」
こういったリスクは承知していた。だからこそ、生徒は男子限定だった。だが、その母親に言い寄られるのは予想外だった。
ある程度世慣れた今なら、もう少しうまく立ち回ることもできたかもしれない。けれど、21の俺は潔癖に「○○君が悲しみます」と言い捨ててその場を後にした。結果、恥をかかされたことに怒った母親は、俺を解雇した。本当のことは言えなかった。言えないことも見透かされていたのだろう。ともかく、俺は月数万円の収入を喪うことになった。
この辺りで、だんだんおかしくなっていたのだと思う。毎日モヤシ炒めばかり喰っていたせいもあるかもしれない。胃の腑に溜まるのは怒りばかりで、叫びだしたくなった俺はそのまま自転車に跨った。
漕いで漕いで、零時を回る頃にはいよいよ海に出た。
もう空腹で叫ぶ気力もなくした俺は、横たわる場所を求めて浜辺に下り立った。街灯の届かない波打ち際まで踏み出せば、ただ闇が揺蕩うばかりだ。波の音も潮の匂いも、闇の奥に蠢く無数の生を感じさせた。知らぬ間に異界の入り口に立たされた気がして、思わず後退った。あちら側から来た何かに獲って喰われるイメージが脳裏を過る。けれど、その原始的な怖ろしさはひどく魅力的で、俺は波打ち際を歩き続けた。
月が雲に隠れたせいか、闇が深くなった。さすがに歩き疲れて、今夜の寝床を探そうと辺りを振り返った。
あの時の心細さをどう言い表したらいいだろう。帰り道が、なくなっていた。波打ち際を歩いてきたわけだから、来た道を戻ればいい。そう思っても一体何処が帰るべき場所か、まったく見当がつかなかった。濡れた砂を辿りながら、乗り捨てた自転車を探す。けれど、距離感の狂った俺は何処まで戻ったか、行き過ぎたかもわからない。そうすると、前も後ろもわからなくなった。海を背にして立つ。そうすれば、浜を抜けるはずだ。
その時、大きな波が足元を攫った。思わぬ冷たさに脅かされ、悲鳴をあげかける。
「ちょっと」
不意に白い光が飛び込んできた。いきなりの眩しさに今度こそ大きな声がでた。自分でもみっともない声をあげたと思う。
「……何してんの、あんた」
眩しさに目が慣れると、そこにフランス人がいた。正確にはフランス人ではないが、栗色のボブカットに赤い眼鏡、洒落た髭を生やした男を、俺はそう認識した。
これが、安倍川さんとの出会いだった。
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