番(つがい)

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看護師に案内された小さな部屋には、くたびれた印象の医師が一人座っていた。 40代だろうか、PCモニターの光に照らされた彼は、乾の入室に気づくと座って少し待つように指示した。カタカタと音を立てて打ち込んでいるデータが、津田のものかは分からない。が、彼が津田の処置をした医師であることは間違い無い。 手術室から出てきたこの医師が、目線とわずかな肯首だけで津田の無事を伝えてくれた時、乾には彼が神に見えた。手術着を脱いでも、その顔を見間違えることはない。 ここに呼ばれたのは、津田の手術と現状についての説明のためだろう。 乾は緊張した面持ちで、医師に指示された回転椅子に腰をかけた。 津田は今、特別室で眠っている。 乾が呼んだ救急車で病院に搬送された彼は、慌ただしく運び込まれた手術室で一命をとりとめた。駆けつけた救急隊員の様子から、津田が生命の危機にあったことは明らかだ。 乾は手術室前の無機質な廊下で待つ間、カタカタと鳴る歯をグッと噛みしめた。すると、その歯列が津田の首に食い込んでいた時の感覚が蘇り、叫びそうになるのを必死でこらえた。顎の奥に残る鈍痛は、それだけ強い力を込めて噛んでいたという証拠だ。 術後、意識のないまま病室に移された津田は、まだ目を覚ましていない。包帯で首を巻かれ、縫い合わされた患部が下にならないよう身体を横向きに固定されていた。 点滴の管に繋がれた彼は、河野のマンションから救い出した後の姿を彷彿とさせる。 あの時。なんて酷いことをと、乾は内心憤った。 それなのに、今津田を病院のベッドに繋いでいるのは、他ならぬ自分自身だ。 乾は津田の現状を思い出し、顔をしかめてうなだれた。 「合意でしたか?」 突然かけられた声に、乾は驚いて顔を上げた。医師は変わらず顔をモニターに向けたまま、横目でちらりと乾を見た。 「乾さんですね。津田、幸生…… さんの(つがい)の。今回、(つがい)の成立は合意でしたか?」 手術を待つ間に書かされたいくつもの書類の内容が、モニターに表示されているのだろう。医師はそれを目で追いながら、感情のない声で乾に聞いた。 あれを、合意と言っていいのだろうか。 乾は返事ができなかった。 ヒートから覚め、冷静になるうちに、その最中のことを断片的に思い出した。そして乾の耳の奥には、嫌だと叫んだ津田の声がこびりついているのだ。 逃れようともがく彼を押さえつけた。あの時の自分には確かに、絶対に逃がすものかという暴力的な独占欲があった。 津田が嫌だと意思表示したにもかかわらず、うなじを噛んだ。 それは、合意と呼べるだろうか。
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