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煙草の火はとうに消え、くすぶっていた白い煙が揺れるように溶けているのを見ていた。橙色の照明は、眠気を促す効果があるそうだが、男の手元を、より鮮やかに見せるための体系であった。食器をカチャカチャと仕舞うガラスの音と男女の低音が木霊する午後八時。このカフェにこもってから早二時間。しかしとて一向に彼のくる気配はなく、男はこのどうしようもない程この退屈な時間を、煙草を吸ってごまかす他なかったのである。底が既に見えなくなった灰皿からは、少しばかり焦げ臭いようなにおいがして、窓の外をふと見上げた時に、ぼたぼたとできては消える大きなシミの数は不特定である。ごう、と雨風の音が響く。
煙草の煙が柔らかくなる。男はこの退屈な時間をどうにかしようとして、あれこれと思案しているうちに、また煙草が二、三本灰皿に消えていった。何と恐ろしいことだろう。人を待たせておいて、なんの連絡も、なんの報告もないのである。さらに恐ろしいことに、この通信機の電源はとうに切れてしまっており、外界との交流手段もなくなってしまったと云う事だ。そもそも、人を待たせるということは、何か特別な事情がない限りありえないと思うのである。なぜなら、あらかじめ「何月何日何時何分」と待ち合わせの時間を設定しているからで、普通ならばその時間に間に合うように他の用事の辻褄を合わせていくはずだからだ。なぜなら、それがあらかじめ決められた予定であるからだ。もとはと言えば、彼がそこまで時間や予定に対してルーズであったのは知っていたのだが、そもそもこのような遅刻に対してあまりにルーズな人が多いのである。例えば、男女が恋仲にあるとして、初めて水族館でデートをする予定を立てているとしよう。男は池袋駅の前で立っている。十分、二十分経っても女はやってこない。誰もが諦めかけた三十分後、「ごめーん待ったー?」と女がやってきて、「ううん、今来たとこ」などと、救いようのない嘘をつく。
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