或る夏の壱日。

7/9
前へ
/9ページ
次へ
 あっ、またやってしまった。男の人差し指と中指の間には、煙を上げた煙草が一本。その間からぼんやりと、こんもりと盛り上がった吸い殻の山が一つ。「すいません。灰皿交換お願いします。」奥で何やらこそこそと話している。女性店員と、男の店員。「かしこまりました。」いやに体格のいい男が灰皿を交換する。その表情が一瞬ゆがんだのを男は認識したのだが、何故か、いや当然ながら、男が興奮を覚える余地は微塵もなかった。さて、そうとは言っても、彼が退屈であるという事実には何も変化がなかったのである。未だ男は来ない。そして男は、このカフェにはいってからというものの、まだ何も注文していないことを思い出した。店に入ったからと言って、何かを注文しなければならないという法律もルールもなかったが、しかし何も注文せずにこんなに長い時間席を占領しているというのもあまりに質が悪い。初めて、男は手元のメニューを開く。ミートソース、カルボナーラ、オニオングラタン、サラダ…しかし生憎、男には空腹であるという感覚は存在していなかったのである。だが、果たして空腹ではないと決めつけてしまっていいのだろうか。空腹であるというのは感覚である。「私は空腹だから空腹なのだ」という原始的で抽象的、発展性のない理由を述べようとて、それはあくまで男が「空腹」という言葉を用いて自己の生理的な身体状態を形容しているだけであり、具体的で論理的な理由は成立しない上、それが果たして本当に、十割の確率で「空腹である」という結論に結びつけて良いかどうかはわからないのである。とどのつまり、かれは空腹であったのだが、先ほど財布に四百円しかないのを確認したので、一番安い三百八十円のコーヒーを頼むほかはなかったのだ。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加