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地獄
「今日ここに来るまでのことを教えて下さい」
消毒液の匂い、白い部屋。中年男性が眼鏡の下から僕を覗き込む。僕はそれが不思議でならない。わざわざレンズを避けるなら、眼鏡なんてかけなければいい。男性のその覗き込むような視線は不愉快で堪らなかった。僕は気を紛らわそうと自分が座っている椅子の存在に集中する。それは少し冷たすぎるように思う。鉄だ。鉄が僕の温度を奪い続けている。
「朝、起きて、夢を見ていました。いや、夢を見ていて、それから起きました」
考えていることを言葉にするのは難しい。混乱するし、何より思考に対して言葉は単純過ぎるのだ。膨大な情報に手を突っ込んで、ひとつまみ。そういうことを続けて、繋げて、それが言葉だ。何もかもが切り捨てられて、本当のことは誰にも伝わらない。それはまるで。まるで。四捨五入だ。そう四捨五入なのだ。
「夢を見ていたのですね。よく眠れましたか?」
男性は僕から目を離し、手元のクリップボードに何かを書き込んでいる。手の動きを見るに、これは数字だろうか。に、ぜろ。今日の日付だ。僕がクリップボードばかりを見て何も答えないでいるので男性は再び僕に尋ねる。
「よく眠れましたか?」
「ねむ、れ」
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