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染み込んだ、じんわりゆっくりと
月と街灯が照らす9時30分、吐く息が白い、冬の夜。コートのポケットから鍵を取り出し、穴に差し込みゆっくりと静かに回す。これまた静かに鍵を抜き、できるだけ音を立てぬよう扉を引けば、外とそう変わらない冷たい玄関が姿を現す。
リビングの明かりは漏れているものの、音の全く聞こえない空間に思わず重たい吐息が吐き出される。
さっと建物の中へ滑り込み、しなければならない物事を一つ一つ思い浮かべては睡眠を要求する体に鞭打ち唯一明かりの灯るリビングへと足を踏み入れる。
(………あぁ、掃除もしなければな。まだ昨日炊いたご飯がある。温めて、惣菜はこれでいいだろ。風呂沸かして、洗濯はまだいけるはず、今日は水曜だから明日は木曜、ゴミの日だったな、まとめて玄関置いておいて…………)
ガサゴソと荷物をテーブルへ置き、ご飯を温めていると視界の端に小さな頭がみえた。振り返ると小学二年の娘が目を擦りながらこちらへ向かっていた。
「……ただいま、つむぎ」
まだ完全に目が覚めていないのだろうぼーっとした表情でこちらを見ている。次第に焦点のあった瞳が俺を確認すると一言。
「おかえりなさい。」
小さく、返ってくる返事は感情が窺えない。とてとてと台所で布巾を湿らせテーブルの用意をしてくれる。
いつも娘はこんな風だったのか、俺には分からない。朝早く家を出て夜遅く帰ってくる生活を続けていた俺には、性格も、嗜好も、家でどう過ごしてきていたのかも。
全て、妻に任せていたのだ。
家のことは全て、家事も、子育ても、何もかも。
その妻が居なくなった。
交通事故だった。
病院からの電話に慌てて駆けつけるも既に悲しみが満たす真っ白な空間しか残されていなくて、ただただ周りに促されるままに呆然と煙となって消えていく妻を見送った。
小学生の娘はひたすらにただでさえ妻に似て大きな瞳が溶けてこぼれ落ちてしまうのではないかと心配になるほどの涙を溢れさせ、高校生の息子は唇を噛み締めそのままの状態で固まってしまうのでは、となるほど顔中の筋肉を総動員し涙を堪えていた。
その様子をまるで他人事のようにアホみたいに無感情に眺めている俺がいて、あぁ、子供達がこんなに悲しみを露わにしているのに俺はなんだ。
悲しみは、嘆きは、怒りは、慟哭は。
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