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「良江は――妻は、この店が好きだったんだ。だから、私はこの店を継いだのに。それなのに、妻は来なくなった。どんなに待っても来なかった。そしたら、今日これを」
指先で離婚届に触れる。クリアファイルのつるりとした表面は無機質で、温もりの欠片も感じられない。
「ちゃんと奥さんと話したほうがいいと思いますよ。たぶんですけど、奥さんも迷ってるんだと思います。だって、ここに来てくれたじゃないですか」
私は、良江が座っていたカウンター席を見つめた。彼女はここで何を思っていたのだろう。
「私、もう行かなくちゃ。お世話になりました」
「あ、ああ、今までありがとう、元気で」
カラン、とドアベルが鳴り、沙苗は出ていった――と思ったら、ひょっこりと顔を出して、にっと笑った。
「待ってるのは、自分だけじゃないかもしれませんよ」
――ああ、と小さく声が漏れた。
祈るように握りしめられた手。
寂しそうな、怒っているような、笑っているような、あの表情。
良江も、何かを待っていたのだろうか。
「このお店、続けてくださいね。なくなったら困っちゃうから」
そんな言葉を残して、今度こそ沙苗は出て行った。
良江と同じことを言う。私は思わず笑ってしまった。
「ノワール」で私が笑ったのは、恐らく初めてだった。
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