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私が喫茶店のマスターになったのは、言ってみればただの成り行きだった。
私の父は、自分自身ではなく、自分の金を働かせるのが得意な人だった。ビルやアパートの家賃収入、株や投資でもだいぶ儲けていた。年収にすれば、おそらく平均的なサラリーマンの三倍はあったのではないだろうか。
その父が晩年始めたのがこの喫茶店「ノワール」だった。
夜には閉めてしまうのに「夜」を意味する名前を付けるなんて、と父に言ったことがある。
「俺の人生はもう夜に入ったところだからな、いいんだよ」
父は豪快に笑った。
自分の金を働かせ続けた父が、道楽のように始めた店。それでも、自分の手足を動かして働くのは存外楽しかったらしく、父は足腰が立つあいだ、この店に立ち続けた。
父は亡くなる少し前、私に言った。
「あの喫茶店だけは残してほしいんだ。できれば、お前に継いでもらいたい」
私はその言葉に従い、会社を辞め、喫茶店のマスターになる準備をした。
会社は上が詰まっていてこれ以上出世できる見込みもなかったし、一人息子の直也も大学卒業まであと少し。父が遺してくれる財産があれば、贅沢さえしなければなんとかなる。そんな計算も働いた。
そして父が亡くなり、喪が明けると、私は「ノワール」の新しいマスターになった。
そのとき四十九歳――父の言葉を借りれば、私の人生もそろそろ「夜」に入る年齢だった。
四つ年下の妻、良江は、私が会社を辞めることに反対しなかった。むしろ、
「哲夫さん、私もできる限りお手伝いしますから。あのお店続けてください」
と、私に頼んだくらいだった。
良江は「ノワール」が好きだった。仕事の合間、家事の合間、彼女はよく「ノワール」に行った。
そのくせ「親父は元気だったか?」と聞くと、ぽかんとした顔をして「分かんない」と答えた。彼女はただ客として行くのであって、父の様子などはどうでもいいらしい。
「どこがいいんだ? あんな辛気くさい店」
「そうねぇ。なんだか受け入れてくれる感じがいいのよ」
良江はうっとりとした表情で言った。
「あのお店がなくなったら、私も困るし、きっと他にも困る人がいると思うの。だから哲夫さん、お願い」
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