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いつだったか良江に、客に出す水にレモンやミントなんかを入れてみたらどうか、と言われたことがあった。
「どうしてだ?」
「なんか気分がいいじゃない。ホスピタリティっていうのかしら。ほら、やっぱり細かい気配りって嬉しいものよ。特に女性は――」
「客はコーヒーを飲みに来るんだ。水に洒落っ気出しても仕方ないだろ」
結局、水はいまだに水道水のままだ。
今となっては機械的といってもいいくらいの型どおりの手順でコーヒーを淹れていく。
サイフォン式なのは父のこだわりだ。
フラスコに湯を注ぎ、アルコールランプに火を点ける。粉を入れてロートを差し込むと、コポコポと音がして強い香りが立ちこめた。軽く攪拌して火を止める。透明な水が薄い茶色に、そして褐色へと変化していく。
コーヒーにそれほど思い入れはないけれど、「水」が「コーヒー」へと変化するこの瞬間が好きだった。
ちらりと見ると、良江は目を閉じてカウンターの上で手を組んでいた。まるで何かに祈っているようにも見えた。
フラスコからカップへ注ぐと、今度はふわりと柔らかい香りが広がった。父が残したカップは好みではなかったが、不便もないのでそのまま使っている。
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