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結婚指輪、離婚届、四百五十円。
閉店した「ノワール」で、私は一人カウンター席に座っていた。
私はいったい何を待っているんだろう。もう誰も訪れることがないこの場所で。
私がマスターになってから、良江は徐々に「ノワール」から離れていった。そしてそれは、私との距離でもあった。長年連れ添っていたのだから、少しくらい距離ができるのは当然だと思っていた。
それなのに、私に突きつけられたのは目の前の離婚届。
私はいったい、何を待っているんだろう。
そのとき、カランとドアベルが鳴った。
「すみません、もう閉店で――」
振り向いた先にいたのは、いつも通り十五時半に「お疲れ様でした」と告げて帰った沙苗だった。
「ごめんなさい、これ、返すの忘れてて」
小さな紙袋を受け取ると、中に入っていたのは紺色のエプロンだった。
「一応、洗濯してアイロンはかけてきました」
「別に、これくらい返さなくてもよかったのに」
「そういうわけには――」
沙苗の視線がカウンターの離婚届と結婚指輪を捉える。
「あのお客さん、マスターの奥さんだったんですね」
「あ、ああ。まあ、そうだよ」
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