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おやすみなさい
トラジがぴくりと動きを止めた。
「簡単なトリックだった」
タツキは、トラジを責めるでもなく、淡々と口を開く。
「忘却薬は、その分量によって記憶を消去する期間を調整することができる。
睡眠薬と一緒に忘却薬を飲ませて、24時間分の記憶を消してしまえば俺の記憶は、お前を殴った所で途切れる。
あとは、目覚めた俺を適当に言いくるめればいい。
俺に忘却薬を飲ませるのは簡単だ。
うちの母親にでも、あらかじめ頼んでおいて、食事に混ぜればいいだけだ」
トラジは反論をしなかった。
その顔にあるのは、悔しさと憎しみと、悲哀。
「トラジ。これで、何度目だ。
何度やっても同じだ。
俺は確かに、ボクシングが好きだ。
けど、もうお前ほどの情熱は残っていない。
高みを目指す意欲はもうないんだ。
ループして、世界が巻き戻っても、戻らないものはあるんだ」
このやり取りを、何度行ったのか。
タツキにはわからない。
けれど、トラジに諦める気がないのは、その表情から見て取れた。
「今日のことは、忘れるよ。
お前が、俺のことを吹っ切って、前に進めるようになるまで、俺は何度でも付き合うよ」
きっと、このやり取りも何度も交わされたものなのだ。
水をコップに注ぎ、タツキは24時間の記憶を消す忘却薬を飲み干す。
今度こそは、あの夢のような日々に戻りませんように。
そう願う。
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